西国三十三所巡礼 第二十五番札所 御嶽山 清水寺 [西国三十三所巡礼]
清水寺といえば京都を思い浮かべますが、実はコチラの方が150年も古い。
清水寺=京都。のイメージが定着しているが、全国には幾つか同名の寺がある
慈眼山清水寺(長野県)、白華山清水寺(岐阜県)、岩手県には山号も
京都の清水寺と同じ音羽山清水寺があったりします。
長野の清水寺の御本尊を京都に移したから京都も清水寺と名乗っているとか
岐阜の清水寺は京都と同じ延鎮上人を開基としています。
これらの清水寺はいずれも奈良・平安時代に創建されたもの。
今回の兵庫県加東市にある『御嶽山 清水寺(みたけさん きよみずでら)』は
それより以前、古墳時代・推古天皇の御代に創建、建立されたと伝えられています。
通称「播州清水寺」、京都の清水寺(西国三十三所16番札所)と区別するため
そう呼ばれています。京都のように世界遺産でも無ければ国宝もありません。
修学旅行生の姿も見られない・・・(^_^ゞ
『仁王門』
ちょうど写真を撮る時にDUCATIに乗って来られた方とタイミングが被りました。
「すぐにどけますから」とおっしゃったのですが、逆に「置いといて」って
一緒に撮らせてもらいました。
『仁王像』
このお寺、創建は古いですが大正2年に全山焼失。現在のものはそれ以後
再建されたものです。仁王門に関しては昭和40年台風にて全壊。
昭和55年末、新築再建。平成4年丹塗装完成というものです。
金剛力士像は大正10年岡倉天心に従事した奈良の仏師菅原大三郎氏の遺作。
後に昭和53年太三郎氏の子息、東京芸大 菅原安男名誉教授により修復。
トップ画のようにここからも瀬戸内海が望める絶景スポット。海抜550mの
山岳地に建つ寺院です。アクセスは「清水寺登山口」のゲートで300円を
払うとお寺までくねくねドライブウェイ、門前には普通車390台収容の大駐車場。
ドライブウェイの通行料だけで、駐車場・入山料は無料です。
マイカー参拝はいたって快適。ちなみに公共交通利用となると・・・
JR福知山線「相野(あいの)駅」から清水寺行きのバスで約35分。
・・・ですが、このバス、1日2本のみ。
相野発10:20 清水寺着11:06のバスが清水寺発12:10で、1時間ちょいの
参拝時間はあるのですが、結構広い境内、アップダウンもあるし、
ゆっくりはしていられないかも。次のバスが最終となり清水寺発14:50ですが
これに乗り遅れると、徒歩下山?県道まで出てもバスの便があるのかな?
ちなみに僕らが行ったのは11/25日で「紅葉ライトアップ」の最終日。
点灯時間は17:30~21:00でしたが、バスの増便は無かったような・・・
『大講堂』、写真手前は『放生池』そして『手水舎』
西国二十五番の札堂となっています。大正2年焼失後、真っ先に再建された
お堂のひとつです。
『大講堂』正面
『御本尊・十一面千手観音』 『賓頭盧尊者』
ここの御本尊は秘仏ではなく常時公開、拝観料(300円)を払えば内陣に入れ
間近で拝めます。
眺めても良し、ここからの眺めも良し。大講堂の縁からは日没、夕陽が美しい。
なお、展望台(売店屋上)からは朝日が美しく、初日の出スポットになっています。
『薬師堂』 創建は平清盛の義母「池の禅尼」
『十二神将』
薬師堂の内部には十二支の動物たちが戦士の姿になったユニークな像が。
奈良の平城遷都キャラクター「せんとくん」で物議をかもした
東京芸大 藪内佐斗司教授の作品です。藪内ワールド全開ですね!
『鐘楼』
この鐘の音は播磨、丹波、摂津の三国に響き渡るといわれ、開運の鐘として
親しまれているとか。撞くこともできます(100円)
『根本中堂』(本堂)
創建以来の御本尊はこちらに安置されています。(秘仏です)
開基法道仙人が刻んだ一刀三礼(いっとうさんらい:仏像を刻むのに
一刀を入れる毎に三度礼拝すること)の十一面観世音菩薩。
法道仙人は前回の番外花山院の開基と同じ。天竺(インド)から雲に乗って
来られたって仙人ね。さすがにHPでは中国、朝鮮を経て御嶽山に住まわれ
・・・と書いてありますが。(^_^ゞ
ただこの御本尊、大正2年炎上の際、自ら避難・・・って!
『本坊』
この日は一般公開されていませんでした。その訳は・・・「婚活会場」。
さて、「おかげの井戸」へ。
『滾浄水』
法道仙人が水神に祈って湧水した霊泉。「清水寺」と称される由縁です。
「おかげの井戸」薄暗い井戸を覗いて自分の顔が水面に見えれば、寿命が
3年延びると言われているそうです。写真撮ってて覗き込むの忘れてた。
もう辺りも薄暗く、井戸は真っ暗。まず顔は映らんかったやろな・・・
『宝篋印塔』(ほうきょういんとう)
かつては護摩堂が建っていたところだそうです。
『月見亭』 ちょうどよいお月さんが出ていました。
『多宝塔跡』
元の大塔(多宝塔)は平清盛の生母、祇園女御の建立と言われているが焼失、
再建するも昭和40年の台風で倒壊。今後また再建予定だそうです。
なお、このお寺の常行堂は後白河法皇により、また阿弥陀堂は源頼朝により
建立されたと言われているそうで・・・
大河ドラマ「平清盛」オールスターキャストやね。(^_^ゞ
『地蔵堂』
ここの写真を撮る頃にはもうすっかり暗くなり、扉も閉められるところだった
のですが、カメラを持って写真を撮りたそうにしていたら、わざわざ扉を
開けて撮らせてくれました・・・♪
5時を過ぎた頃からライトアップも始まり・・・
帰りに見た仁王門、駐車場はほぼ満車状態でした。(^_^ゞ
2012.11/25、播州清水寺にて。
○宗派:天台宗 ○開基:法道仙人
○御本尊:十一面千手観世音菩薩 ○創建:推古天皇35(627)年
御詠歌「あはれみや 普き門の 品々に なにをかなみの ここに清水」
清水寺=京都。のイメージが定着しているが、全国には幾つか同名の寺がある
慈眼山清水寺(長野県)、白華山清水寺(岐阜県)、岩手県には山号も
京都の清水寺と同じ音羽山清水寺があったりします。
長野の清水寺の御本尊を京都に移したから京都も清水寺と名乗っているとか
岐阜の清水寺は京都と同じ延鎮上人を開基としています。
これらの清水寺はいずれも奈良・平安時代に創建されたもの。
今回の兵庫県加東市にある『御嶽山 清水寺(みたけさん きよみずでら)』は
それより以前、古墳時代・推古天皇の御代に創建、建立されたと伝えられています。
通称「播州清水寺」、京都の清水寺(西国三十三所16番札所)と区別するため
そう呼ばれています。京都のように世界遺産でも無ければ国宝もありません。
修学旅行生の姿も見られない・・・(^_^ゞ
『仁王門』
ちょうど写真を撮る時にDUCATIに乗って来られた方とタイミングが被りました。
「すぐにどけますから」とおっしゃったのですが、逆に「置いといて」って
一緒に撮らせてもらいました。
『仁王像』
このお寺、創建は古いですが大正2年に全山焼失。現在のものはそれ以後
再建されたものです。仁王門に関しては昭和40年台風にて全壊。
昭和55年末、新築再建。平成4年丹塗装完成というものです。
金剛力士像は大正10年岡倉天心に従事した奈良の仏師菅原大三郎氏の遺作。
後に昭和53年太三郎氏の子息、東京芸大 菅原安男名誉教授により修復。
トップ画のようにここからも瀬戸内海が望める絶景スポット。海抜550mの
山岳地に建つ寺院です。アクセスは「清水寺登山口」のゲートで300円を
払うとお寺までくねくねドライブウェイ、門前には普通車390台収容の大駐車場。
ドライブウェイの通行料だけで、駐車場・入山料は無料です。
マイカー参拝はいたって快適。ちなみに公共交通利用となると・・・
JR福知山線「相野(あいの)駅」から清水寺行きのバスで約35分。
・・・ですが、このバス、1日2本のみ。
相野発10:20 清水寺着11:06のバスが清水寺発12:10で、1時間ちょいの
参拝時間はあるのですが、結構広い境内、アップダウンもあるし、
ゆっくりはしていられないかも。次のバスが最終となり清水寺発14:50ですが
これに乗り遅れると、徒歩下山?県道まで出てもバスの便があるのかな?
ちなみに僕らが行ったのは11/25日で「紅葉ライトアップ」の最終日。
点灯時間は17:30~21:00でしたが、バスの増便は無かったような・・・
『大講堂』、写真手前は『放生池』そして『手水舎』
西国二十五番の札堂となっています。大正2年焼失後、真っ先に再建された
お堂のひとつです。
『大講堂』正面
『御本尊・十一面千手観音』 『賓頭盧尊者』
ここの御本尊は秘仏ではなく常時公開、拝観料(300円)を払えば内陣に入れ
間近で拝めます。
眺めても良し、ここからの眺めも良し。大講堂の縁からは日没、夕陽が美しい。
なお、展望台(売店屋上)からは朝日が美しく、初日の出スポットになっています。
『薬師堂』 創建は平清盛の義母「池の禅尼」
『十二神将』
薬師堂の内部には十二支の動物たちが戦士の姿になったユニークな像が。
奈良の平城遷都キャラクター「せんとくん」で物議をかもした
東京芸大 藪内佐斗司教授の作品です。藪内ワールド全開ですね!
『鐘楼』
この鐘の音は播磨、丹波、摂津の三国に響き渡るといわれ、開運の鐘として
親しまれているとか。撞くこともできます(100円)
『根本中堂』(本堂)
創建以来の御本尊はこちらに安置されています。(秘仏です)
開基法道仙人が刻んだ一刀三礼(いっとうさんらい:仏像を刻むのに
一刀を入れる毎に三度礼拝すること)の十一面観世音菩薩。
法道仙人は前回の番外花山院の開基と同じ。天竺(インド)から雲に乗って
来られたって仙人ね。さすがにHPでは中国、朝鮮を経て御嶽山に住まわれ
・・・と書いてありますが。(^_^ゞ
ただこの御本尊、大正2年炎上の際、自ら避難・・・って!
『本坊』
この日は一般公開されていませんでした。その訳は・・・「婚活会場」。
さて、「おかげの井戸」へ。
『滾浄水』
法道仙人が水神に祈って湧水した霊泉。「清水寺」と称される由縁です。
「おかげの井戸」薄暗い井戸を覗いて自分の顔が水面に見えれば、寿命が
3年延びると言われているそうです。写真撮ってて覗き込むの忘れてた。
もう辺りも薄暗く、井戸は真っ暗。まず顔は映らんかったやろな・・・
『宝篋印塔』(ほうきょういんとう)
かつては護摩堂が建っていたところだそうです。
『月見亭』 ちょうどよいお月さんが出ていました。
『多宝塔跡』
元の大塔(多宝塔)は平清盛の生母、祇園女御の建立と言われているが焼失、
再建するも昭和40年の台風で倒壊。今後また再建予定だそうです。
なお、このお寺の常行堂は後白河法皇により、また阿弥陀堂は源頼朝により
建立されたと言われているそうで・・・
大河ドラマ「平清盛」オールスターキャストやね。(^_^ゞ
『地蔵堂』
ここの写真を撮る頃にはもうすっかり暗くなり、扉も閉められるところだった
のですが、カメラを持って写真を撮りたそうにしていたら、わざわざ扉を
開けて撮らせてくれました・・・♪
5時を過ぎた頃からライトアップも始まり・・・
帰りに見た仁王門、駐車場はほぼ満車状態でした。(^_^ゞ
2012.11/25、播州清水寺にて。
○宗派:天台宗 ○開基:法道仙人
○御本尊:十一面千手観世音菩薩 ○創建:推古天皇35(627)年
御詠歌「あはれみや 普き門の 品々に なにをかなみの ここに清水」
カッパのロードスター
西国三十三所巡礼 番外 東光山 花山院菩提寺 [西国三十三所巡礼]
西国三十三所の番外寺は三ヶ所あります。ここが最後の番外になりました。
西国三十三所観音霊場、札所以外の番外はいずれも巡礼を復興された
花山法皇がらみかな?
『東光山 花山院(とうこうざん かざんいん)』は、兵庫県三田市にあり
菩提寺とも呼ばれています。他の番外二ヶ所、法起院(奈良)・元慶寺(京都)に
比べると、大きなお寺でした。
ここから約900m山道を登って行きます。結構急勾配の所もありますが、
お年寄りでも歩いて・・・ちなみに杖が常備されています。
距離は900mですが、標高差は170m。杖無しでは厳しそうです。
クルマで行けば山門の直ぐ側に充分な駐車場があります。(他の番外2寺とは違い)
ここで「番外」、「花山法皇」について・・・
そもそも西国三十三所観音霊場ツアーを開始されたのは「徳道上人」。
突然の病で死にかけた時、閻魔大王より『お前はまだ死ぬな。世に三十三の
観音霊場があり、これを巡礼すると清められ、苦しみ悩みから救われる。
まだ誰もこの霊場のことを知らないので、人々に知らせて広めよ』と言われ
宝印を授けられるとこの世に戻されました。そこで三十三の観音霊場の霊験を
人々に説いて回ったのですが、信じてもらえず。ツアー企画は失敗、破綻。
落ち込んだ徳道上人は、ヤケになって(?)その宝印を中山寺に埋めてしまい、
晩年隠棲した寺が奈良桜井市の「番外・法起院」でした。
時が流れ270年後、この宝印を掘り起こし観音霊場巡りを再興されたのが
「花山法皇」。16歳で第65代天皇に即位するも、わずか2年程で政治的陰謀
により、落飾(出家)された寺が京都市山科の「番外・元慶寺」でした。
また落飾前には寵愛された后をお腹の子と共に亡くされ、非運の人でもあります。
仏門に入られてからは西国三十三所巡礼を再興する大事を成し遂げ、41歳で
崩御される前14年間を過ごされたのがここ「番外・花山院」です。
お寺までの山道は「琴弾坂」と呼ばれています。近くの山中にも「琴弾峠」と
言う地名が残っていたり、この辺りは「尼寺(にんじ)」という地名だったり。
その訳は・・・花山法皇を慕い追っかけてきた(?)11人の女官たち、お寺の
領域は女人禁制なので近寄れず、山上の法皇に思いを馳せながら、法皇の
心を癒さんと琴をつま弾いた場所なんだそうです。
法皇が亡くなった後も11人の女官たちは尼となり、生涯この地で法皇の供養に
努めたと言います。そのため麓の村にこの地名が残っているのだとか。
なお、この麓には花山天皇が若くして亡くされた后、弘徽殿女御(こきんでんのによご)と
11人の女官たちを弔った十二妃の墓があるそうですが、見逃しました。(^_^ゞ
『山門』大きくは無いですが、しっかり阿吽の仁王像が立っている仁王門です。
『花山法皇殿』
小ぶりな堂宇ですがここでは大きいほうかな、観音堂にあたります。
法皇が帰依された十一面観音像、花山法皇像、弘法大師像が祀られています。
『賓頭盧尊者像』
写真奥が観音堂(花山法皇殿)、手前が薬師堂(瑠璃光殿)
『薬師堂』(本堂)
こちらにご本尊「薬師瑠璃光如来」が祀られています。
縁起によれば、開祖の「法道仙人」は念持仏、仏舎利と鉄鉢だけを持って
天竺(インド)から雲に乗ってこの地に渡来したと言われています。
この法道仙人は役行者と並ぶ法力を持った修験僧であり、このお寺も
その修行の聖地として開かれました。
雲に乗って来たかどうかは別として、播磨一帯の山岳地にある多くの寺院の
開山、開基として名を残してます。
なお、日本に渡るときに牛頭天王(ごずてんのう)と共に渡ったとされ
その牛頭天王、現在は京都八坂神社の祭神として中の座に祭られています。
『鐘楼』と写真奥のお堂には不動明王が。
『荒神堂』三寶大荒神が祀られています。
標高418mの境内からの眺望は素晴らしく、眼のあたりに有馬富士、南には
六甲連山、西には広く播州平野から播磨灘、そして小豆島まで見えるという
「有馬富士」標高374m、ちょっと見下ろす感じ。「千丈寺湖」
図によると千丈寺湖の右上くらいに小豆島が見えているはずですが
確認はできませんでした、つか、小豆島ってどんなカタチか分んない・・・
さて花山法皇の御廟所は、本堂など伽藍とは広場を隔てて石垣が積まれたところ。
「13仏」他にも宝篋印塔や石碑、石像仏が並べてありました。
『花山法皇御廟所』
石垣が積み上げられ小高くなったところに玉垣に囲まれ供養塔があります。
石段を上がり向こう側にいくと正面、後ろに本堂が控えて見えます。
石でできた扉は閉ざされ、玉垣の内部には入れないようです。
それなりに立派ではありますが、御陵としてはどうなのかな・・・
ここのお寺にも新しい企画商品(?)が・・・『幸福(しあわせ)の七地蔵』
HPには「全国初のお地蔵さま」
家族の絆・その幸せ・そして自分の人生の幸せ・成就のお地蔵さま
・・・とあります。7体のお地蔵様(それぞれに意味がある)は、いずれも
右手を差し出しています。その手を両手でしっかり握ってお願いするのだとか。
私も全部握ってきましたが・・・(^_^ゞ
「本坊」と「納経所」
2011.11/25、花山院菩提寺にて。
○宗派:真言宗花山院派 ○開基:法道
○御本尊:薬師瑠璃光如来 ○創建:白雉2年(651年)
御詠歌「有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かときけば 小野の松風」
西国三十三所観音霊場、札所以外の番外はいずれも巡礼を復興された
花山法皇がらみかな?
『東光山 花山院(とうこうざん かざんいん)』は、兵庫県三田市にあり
菩提寺とも呼ばれています。他の番外二ヶ所、法起院(奈良)・元慶寺(京都)に
比べると、大きなお寺でした。
ここから約900m山道を登って行きます。結構急勾配の所もありますが、
お年寄りでも歩いて・・・ちなみに杖が常備されています。
距離は900mですが、標高差は170m。杖無しでは厳しそうです。
クルマで行けば山門の直ぐ側に充分な駐車場があります。(他の番外2寺とは違い)
ここで「番外」、「花山法皇」について・・・
そもそも西国三十三所観音霊場ツアーを開始されたのは「徳道上人」。
突然の病で死にかけた時、閻魔大王より『お前はまだ死ぬな。世に三十三の
観音霊場があり、これを巡礼すると清められ、苦しみ悩みから救われる。
まだ誰もこの霊場のことを知らないので、人々に知らせて広めよ』と言われ
宝印を授けられるとこの世に戻されました。そこで三十三の観音霊場の霊験を
人々に説いて回ったのですが、信じてもらえず。ツアー企画は失敗、破綻。
落ち込んだ徳道上人は、ヤケになって(?)その宝印を中山寺に埋めてしまい、
晩年隠棲した寺が奈良桜井市の「番外・法起院」でした。
時が流れ270年後、この宝印を掘り起こし観音霊場巡りを再興されたのが
「花山法皇」。16歳で第65代天皇に即位するも、わずか2年程で政治的陰謀
により、落飾(出家)された寺が京都市山科の「番外・元慶寺」でした。
また落飾前には寵愛された后をお腹の子と共に亡くされ、非運の人でもあります。
仏門に入られてからは西国三十三所巡礼を再興する大事を成し遂げ、41歳で
崩御される前14年間を過ごされたのがここ「番外・花山院」です。
お寺までの山道は「琴弾坂」と呼ばれています。近くの山中にも「琴弾峠」と
言う地名が残っていたり、この辺りは「尼寺(にんじ)」という地名だったり。
その訳は・・・花山法皇を慕い追っかけてきた(?)11人の女官たち、お寺の
領域は女人禁制なので近寄れず、山上の法皇に思いを馳せながら、法皇の
心を癒さんと琴をつま弾いた場所なんだそうです。
法皇が亡くなった後も11人の女官たちは尼となり、生涯この地で法皇の供養に
努めたと言います。そのため麓の村にこの地名が残っているのだとか。
なお、この麓には花山天皇が若くして亡くされた后、弘徽殿女御(こきんでんのによご)と
11人の女官たちを弔った十二妃の墓があるそうですが、見逃しました。(^_^ゞ
『山門』大きくは無いですが、しっかり阿吽の仁王像が立っている仁王門です。
『花山法皇殿』
小ぶりな堂宇ですがここでは大きいほうかな、観音堂にあたります。
法皇が帰依された十一面観音像、花山法皇像、弘法大師像が祀られています。
『賓頭盧尊者像』
写真奥が観音堂(花山法皇殿)、手前が薬師堂(瑠璃光殿)
『薬師堂』(本堂)
こちらにご本尊「薬師瑠璃光如来」が祀られています。
縁起によれば、開祖の「法道仙人」は念持仏、仏舎利と鉄鉢だけを持って
天竺(インド)から雲に乗ってこの地に渡来したと言われています。
この法道仙人は役行者と並ぶ法力を持った修験僧であり、このお寺も
その修行の聖地として開かれました。
雲に乗って来たかどうかは別として、播磨一帯の山岳地にある多くの寺院の
開山、開基として名を残してます。
なお、日本に渡るときに牛頭天王(ごずてんのう)と共に渡ったとされ
その牛頭天王、現在は京都八坂神社の祭神として中の座に祭られています。
『鐘楼』と写真奥のお堂には不動明王が。
『荒神堂』三寶大荒神が祀られています。
標高418mの境内からの眺望は素晴らしく、眼のあたりに有馬富士、南には
六甲連山、西には広く播州平野から播磨灘、そして小豆島まで見えるという
「有馬富士」標高374m、ちょっと見下ろす感じ。「千丈寺湖」
図によると千丈寺湖の右上くらいに小豆島が見えているはずですが
確認はできませんでした、つか、小豆島ってどんなカタチか分んない・・・
さて花山法皇の御廟所は、本堂など伽藍とは広場を隔てて石垣が積まれたところ。
「13仏」他にも宝篋印塔や石碑、石像仏が並べてありました。
『花山法皇御廟所』
石垣が積み上げられ小高くなったところに玉垣に囲まれ供養塔があります。
石段を上がり向こう側にいくと正面、後ろに本堂が控えて見えます。
石でできた扉は閉ざされ、玉垣の内部には入れないようです。
それなりに立派ではありますが、御陵としてはどうなのかな・・・
ここのお寺にも新しい企画商品(?)が・・・『幸福(しあわせ)の七地蔵』
HPには「全国初のお地蔵さま」
家族の絆・その幸せ・そして自分の人生の幸せ・成就のお地蔵さま
・・・とあります。7体のお地蔵様(それぞれに意味がある)は、いずれも
右手を差し出しています。その手を両手でしっかり握ってお願いするのだとか。
私も全部握ってきましたが・・・(^_^ゞ
「本坊」と「納経所」
2011.11/25、花山院菩提寺にて。
○宗派:真言宗花山院派 ○開基:法道
○御本尊:薬師瑠璃光如来 ○創建:白雉2年(651年)
御詠歌「有馬富士 ふもとの霧は 海に似て 波かときけば 小野の松風」
カッパのロードスター
西国三十三所巡礼 第二十四番札所 紫雲山 中山寺(その3) [西国三十三所巡礼]
この辺りの地理には疎いので何処が見えているのか(宝塚市街?伊丹方面?)
それほど標高は高くないですが、見晴らし台がありました。
「絵馬堂」
江戸時代の建物を移築したもので、休憩所に。ここからも市街が一望できます。
「萬霊塔」
近代的な建物になっていますが、納骨堂のようです。
この納骨堂(萬霊塔)の前、下のほうは墓地になっていました。またこの横、
上のほうは梅林になっていて観梅の名所になっているようです。
約2kmで奥の院。これは行ってみないとね・・・
奥の院までの道はハイキングコースのような山道。ちょっと険しい石段も。
ところどころに遺跡がありました。
まだまだ先のようです。公園まで来ましたが、引っ返すことに。(^_^ゞ
お腹が空いていたから・・・手近なところ、信徒会館の「観音茶屋」で。
充分歩き回ったことだし、帰途につきます。
ちょっとスナップを撮りながら・・・
門前町をちょっとぶらつくことに・・・
こちらはクルマを停めたJR駅方面。7駆さんが気にされていた
微妙なミニ、まだありました。右は一般の家だと思うのですが・・・?
阪急宝塚線「中山駅」から山門までは商店街になっています。
実は帰りがけに参道にあった屋台のリンゴ飴屋さんで・・・何~んか懐かしくて
ついつい買ってしまいました。かざしているのは、その時のオマケ。(^_^ゞ
どこかゆっくり休憩できるお店はないかと探し、ここに入ることに。
オーガニック素材の店、ナチュラル・スウィートカフェ・・・だそうで。
何だっけな?国産有機ものが材料の天然ジュースとみつ豆♪
屋台で買ったミカン飴とブドウ飴。
「持ち込みお断り」・・・
どうやらココでは食べられそうにないので、撮影だけ・・・(^_^ゞ
2012.10/21、中山寺 参道にて。
カッパのロードスター
西国三十三所巡礼 第二十四番札所 紫雲山 中山寺(その2) [西国三十三所巡礼]
さて、いよいよ中山寺参拝ですが、見どころが多くて 写真を整理するのも大変、順路や位置関係がわけ分らなく・・・
山門から塔頭五ヶ院の並ぶ参道を抜け、最初の石段を登ると広場があり、
右手に紫雲閣、納経所。五百羅漢堂。左手には数々の堂宇が建っています。
本堂はまだその一段上の敷地に建っています。私の場合、エレベーターに
乗ってしまったのでいきなり本堂の広場に着いてしまい、順路が混乱。(^_^ゞ
できればエスカレーター、いや、問題なければ歩いて石段を登りたいところです。
なお、エスカレーターはベビーカー・車椅子の仕様は不可となっていました。
もっと徹底したバリアフリー化はできないものか・・・
「五百羅漢堂」
お堂内部には釈迦如来像を中心に、七百体以上の羅漢さんたちが
取り囲む構図。羅漢さんは一体一体お顔や表情が違うようで
「親兄弟の顔が見たくば中山寺の五百羅漢の堂にござる」なる古歌があるらしい。
「鐘楼堂」 「手水舎」
重厚な鐘楼にくらべ、手水鉢は少し変ったデザインですね。
蓮のツボミのようです。開いた萼の部分が柄杓置きになっていました。
「水掛地蔵」
「閻魔堂」
恐い顔の閻魔様が睨んでいます・・・身に覚えは無いのですが(ドキドキ)
「寿老神堂」
「大黒堂」
「阿弥陀堂」 「亥の子地蔵」
「中山寺古墳」
横穴式石室で、中には石棺が安置されている。寺伝によるとこの古墳は
仲哀天皇の妃、大仲津姫の墓とされているようだが建造年代に矛盾も。
この石棺にまつわる話しでは、以前番外札所「法起院」の記事で書いた縁起に
西国三十三所観音霊場巡りの実質的な創始者である徳道上人が、閻魔大王より
与えられた三十三ヶ所の宝印をこの中山寺に埋められたとされていますが
その宝印がこの石棺に収められていたのではと伝えられています。
なお、後に花山天皇が宝印を掘り起こし、今日の三十三ヶ所を復興されました。
そのような経緯からか、ここが三十三所第一番札所だった時期もあったようです。
「安産手水鉢」
実はこれも舟形石棺なんだそうです。一説には仲哀天皇の妃、大仲津姫の
二人の皇子のうちの一人「忍熊(おしくま)王」を納めたものらしい。
それが何故か中世以降、ご本尊の十一面観音に祈りをこめてこの手水鉢で
身を洗い清めれば,どんな難産も安産したと伝えられるようになったとか。
そもそもこのお寺がどうして「安産の寺」と言われるかを縁起から読むと
ご本尊である十一面観音はインドの王妃シュリマーラー(勝鬘夫人)が
女人救済の悲願をこめて、自ら等身像を彫刻された尊像であること。
豊臣秀吉がこのお寺に祈願して秀頼を授かった。また、多田城主・源行綱の
妻は不信心による悪態をご本尊が鐘の緒をもって戒められたと伝えられており、
以来「鐘の緒」といわれて、出産の無事安泰を守る「安産の腹帯」として、
今も全国からこのお寺に腹帯を授かりに来られるのだとか。ことに幕末には、
中山一位の局が安産の腹帯を授かって明治天皇を無事に出産されたことで
明治天皇勅願所の「安産の観音さま」として有名になったのだそうです。
「大願塔」
かつて存在していた多宝塔を再現したものです。
2本目のエスカレーター、もちろん元気な人は階段を上っていくと・・・
「本堂」
現在の本堂は1603年に豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が再建したもので
桃山時代の代表的な仏堂建築といわれています。
本堂前の「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」さん。
ここでは、大量のよだれかけが奉納されていました。
「開山堂」 「護摩堂」
護摩堂には五大明王が祀られています。
「子授け地蔵」
「防火塔」 「六角堂」
「大師堂」
「?」何か謂れがありそうな・・・
「鎮守社」 「稲荷社」
これで完結・・・では、無いです。まだ「その3」につづく。
2012.10/21、中山寺 五百羅漢堂にて。
○宗派:真言宗中山派(大本山) ○開基:聖徳太子
○御本尊:十一面観世音菩薩 ○創建:推古天皇時代(593~628)年
御詠歌「野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため」
山門から塔頭五ヶ院の並ぶ参道を抜け、最初の石段を登ると広場があり、
右手に紫雲閣、納経所。五百羅漢堂。左手には数々の堂宇が建っています。
本堂はまだその一段上の敷地に建っています。私の場合、エレベーターに
乗ってしまったのでいきなり本堂の広場に着いてしまい、順路が混乱。(^_^ゞ
できればエスカレーター、いや、問題なければ歩いて石段を登りたいところです。
なお、エスカレーターはベビーカー・車椅子の仕様は不可となっていました。
もっと徹底したバリアフリー化はできないものか・・・
「五百羅漢堂」
お堂内部には釈迦如来像を中心に、七百体以上の羅漢さんたちが
取り囲む構図。羅漢さんは一体一体お顔や表情が違うようで
「親兄弟の顔が見たくば中山寺の五百羅漢の堂にござる」なる古歌があるらしい。
「鐘楼堂」 「手水舎」
重厚な鐘楼にくらべ、手水鉢は少し変ったデザインですね。
蓮のツボミのようです。開いた萼の部分が柄杓置きになっていました。
「水掛地蔵」
「閻魔堂」
恐い顔の閻魔様が睨んでいます・・・身に覚えは無いのですが(ドキドキ)
「寿老神堂」
「大黒堂」
「阿弥陀堂」 「亥の子地蔵」
「中山寺古墳」
横穴式石室で、中には石棺が安置されている。寺伝によるとこの古墳は
仲哀天皇の妃、大仲津姫の墓とされているようだが建造年代に矛盾も。
この石棺にまつわる話しでは、以前番外札所「法起院」の記事で書いた縁起に
西国三十三所観音霊場巡りの実質的な創始者である徳道上人が、閻魔大王より
与えられた三十三ヶ所の宝印をこの中山寺に埋められたとされていますが
その宝印がこの石棺に収められていたのではと伝えられています。
なお、後に花山天皇が宝印を掘り起こし、今日の三十三ヶ所を復興されました。
そのような経緯からか、ここが三十三所第一番札所だった時期もあったようです。
「安産手水鉢」
実はこれも舟形石棺なんだそうです。一説には仲哀天皇の妃、大仲津姫の
二人の皇子のうちの一人「忍熊(おしくま)王」を納めたものらしい。
それが何故か中世以降、ご本尊の十一面観音に祈りをこめてこの手水鉢で
身を洗い清めれば,どんな難産も安産したと伝えられるようになったとか。
そもそもこのお寺がどうして「安産の寺」と言われるかを縁起から読むと
ご本尊である十一面観音はインドの王妃シュリマーラー(勝鬘夫人)が
女人救済の悲願をこめて、自ら等身像を彫刻された尊像であること。
豊臣秀吉がこのお寺に祈願して秀頼を授かった。また、多田城主・源行綱の
妻は不信心による悪態をご本尊が鐘の緒をもって戒められたと伝えられており、
以来「鐘の緒」といわれて、出産の無事安泰を守る「安産の腹帯」として、
今も全国からこのお寺に腹帯を授かりに来られるのだとか。ことに幕末には、
中山一位の局が安産の腹帯を授かって明治天皇を無事に出産されたことで
明治天皇勅願所の「安産の観音さま」として有名になったのだそうです。
「大願塔」
かつて存在していた多宝塔を再現したものです。
2本目のエスカレーター、もちろん元気な人は階段を上っていくと・・・
「本堂」
現在の本堂は1603年に豊臣秀頼の命を受けた片桐且元が再建したもので
桃山時代の代表的な仏堂建築といわれています。
本堂前の「賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)」さん。
ここでは、大量のよだれかけが奉納されていました。
「開山堂」 「護摩堂」
護摩堂には五大明王が祀られています。
「子授け地蔵」
「防火塔」 「六角堂」
「大師堂」
「?」何か謂れがありそうな・・・
「鎮守社」 「稲荷社」
これで完結・・・では、無いです。まだ「その3」につづく。
2012.10/21、中山寺 五百羅漢堂にて。
○宗派:真言宗中山派(大本山) ○開基:聖徳太子
○御本尊:十一面観世音菩薩 ○創建:推古天皇時代(593~628)年
御詠歌「野をもすぎ 里をもゆきて 中山の 寺へ参るは 後の世のため」
カッパのロードスター
西国三十三所巡礼 第二十四番札所 紫雲山 中山寺(その1) [西国三十三所巡礼]
兵庫県 宝塚市にあり、安産祈願で有名なお寺なんですね。 こんなに大きなお寺だとは知りませんでした・・・
兵庫県宝塚市にある『紫雲山 中山寺(しうんざん なかやまでら)』、
今まで知らなかったのですが大寺院であると共に、歴史もかなり古い。
創建の年は確定していないようだが600年前後、推古天皇の飛鳥時代に
聖徳太子が創建された我が国最初の観音霊場だそうです。
創建のきっかけは、排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との争いの中、
太子に滅ぼされた物部守屋の霊を鎮めるためと、仲哀天皇の妃、大仲津姫の
二人の皇子を供養するため建立されたとも。
当初は現在地より北の山腹にあったようですが、源平の争乱で焼失。後に
源頼朝が再建し、現在の寺観は豊臣秀頼が伽藍を整えた以降のものだそうです。
お寺は拝観無料ですが駐車場が無いので、周辺の有料駐車場を探すことになります。
電車だと便利、特に阪急電車「中山駅」からだと徒歩1分?、JRだと
少し離れますが「中山寺駅」があります。
駐車場はどこも満車状態のことが多いようですが、ラッキーにも比較的近場で
1台分空いたところに入れることができました。あとはテクテク・・・
歩いてお寺を目指すと、トップ画のように立派な山門が現れました。
この山門、「望海楼」とも呼ばれ、徳川家光の寄進により再建されたもの。
正面には仁王像、裏には狛犬が置かれています。最近、調査復元されたとのことで
弁柄漆の塗りも真新しいものでした。
それにしても大勢の参拝者で賑わっています。
京都のお寺のように修学旅行生の姿は見られません、その代わり
赤ちゃん、子連れが多い。参拝者の平均年齢はとても低い・・・(^_^ゞ
山門を抜けると参道の両脇に、塔頭(たっちゅう)五ヶ院が並んでいます。
参道には屋台も出ているので、まるでお祭り日のような賑わいです。
塔頭、今でこそ5つですが往時には100を越える塔頭があったそうです。
塔頭の塀沿いには山茶花や芙蓉の花が咲いていました。(10/21日撮影)
蜂を見つけると撮りたくなる悪い癖、それにしても怖そうな蜂やなぁ・・・
「総持院」
福禄寿 文殊菩薩(卯年)、不動明王(酉年)
中山寺は安産祈願本邦随一の霊場として信仰を集めていますが
塔頭の方は水子供養が目立ちました。他にも合格祈願等多種多様、
大型ショッピングセンター内の専門店街みたいな・・・(^_^ゞ
「宝蔵院」
弁財天 大日如来(未年、申年)
「華蔵院」
毘沙門天 阿弥陀如来(戌年、亥年)
「観音院」
大黒天 普賢菩薩(辰年、巳年)
「成就院」
布袋尊 虚空蔵菩薩(丑年、寅年)
さて、いよいよ中山寺に・・・なんと!
ここはエレベーター、エスカレーターがあります。
おそらく妊婦さん、赤ちゃん連れ、ベビーカーなどを考慮してのことでしょう。
実は阪神大震災でかなりの被害を受けたようで、復旧の際にこのような
設備も整えられたようです。
私らも行きはエレベーター、帰りはエスカレーターを利用しました。
ええ、楽したわけではありません。あくまで話のタネにね!(ムニャムニャ)
案内板も近代的。
納経所は
「紫雲閣」というこれまた近代的で大きな建物の中にあります。
さすが宝塚、歌劇団のパンフなどが置かれていたりします。
このあと、見どころも多く結構大変・・・では「その2」につづくってことで。
2012.10/21、宝塚市 中山寺にて。
兵庫県宝塚市にある『紫雲山 中山寺(しうんざん なかやまでら)』、
今まで知らなかったのですが大寺院であると共に、歴史もかなり古い。
創建の年は確定していないようだが600年前後、推古天皇の飛鳥時代に
聖徳太子が創建された我が国最初の観音霊場だそうです。
創建のきっかけは、排仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏との争いの中、
太子に滅ぼされた物部守屋の霊を鎮めるためと、仲哀天皇の妃、大仲津姫の
二人の皇子を供養するため建立されたとも。
当初は現在地より北の山腹にあったようですが、源平の争乱で焼失。後に
源頼朝が再建し、現在の寺観は豊臣秀頼が伽藍を整えた以降のものだそうです。
お寺は拝観無料ですが駐車場が無いので、周辺の有料駐車場を探すことになります。
電車だと便利、特に阪急電車「中山駅」からだと徒歩1分?、JRだと
少し離れますが「中山寺駅」があります。
駐車場はどこも満車状態のことが多いようですが、ラッキーにも比較的近場で
1台分空いたところに入れることができました。あとはテクテク・・・
歩いてお寺を目指すと、トップ画のように立派な山門が現れました。
この山門、「望海楼」とも呼ばれ、徳川家光の寄進により再建されたもの。
正面には仁王像、裏には狛犬が置かれています。最近、調査復元されたとのことで
弁柄漆の塗りも真新しいものでした。
それにしても大勢の参拝者で賑わっています。
京都のお寺のように修学旅行生の姿は見られません、その代わり
赤ちゃん、子連れが多い。参拝者の平均年齢はとても低い・・・(^_^ゞ
山門を抜けると参道の両脇に、塔頭(たっちゅう)五ヶ院が並んでいます。
参道には屋台も出ているので、まるでお祭り日のような賑わいです。
塔頭、今でこそ5つですが往時には100を越える塔頭があったそうです。
塔頭の塀沿いには山茶花や芙蓉の花が咲いていました。(10/21日撮影)
蜂を見つけると撮りたくなる悪い癖、それにしても怖そうな蜂やなぁ・・・
「総持院」
福禄寿 文殊菩薩(卯年)、不動明王(酉年)
中山寺は安産祈願本邦随一の霊場として信仰を集めていますが
塔頭の方は水子供養が目立ちました。他にも合格祈願等多種多様、
大型ショッピングセンター内の専門店街みたいな・・・(^_^ゞ
「宝蔵院」
弁財天 大日如来(未年、申年)
「華蔵院」
毘沙門天 阿弥陀如来(戌年、亥年)
「観音院」
大黒天 普賢菩薩(辰年、巳年)
「成就院」
布袋尊 虚空蔵菩薩(丑年、寅年)
さて、いよいよ中山寺に・・・なんと!
ここはエレベーター、エスカレーターがあります。
おそらく妊婦さん、赤ちゃん連れ、ベビーカーなどを考慮してのことでしょう。
実は阪神大震災でかなりの被害を受けたようで、復旧の際にこのような
設備も整えられたようです。
私らも行きはエレベーター、帰りはエスカレーターを利用しました。
ええ、楽したわけではありません。あくまで話のタネにね!(ムニャムニャ)
案内板も近代的。
納経所は
「紫雲閣」というこれまた近代的で大きな建物の中にあります。
さすが宝塚、歌劇団のパンフなどが置かれていたりします。
このあと、見どころも多く結構大変・・・では「その2」につづくってことで。
2012.10/21、宝塚市 中山寺にて。
カッパのロードスター