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もうひとつ、コンクリもの。 [レトロ建築]

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昭和初期のコンクリート造住宅遺産を見学したついでに
琵琶湖疎水(山科疎水)に架かる日本で初めてのコンクリート橋を
見に行きました。

その前にちょっと、1890(明治23)年に、日本人だけの手で完成させた
疎水には明治の遺構ともいえるトンネルが残されていて、
それらにつけられた扁額もまた見逃せません。

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〈第2トンネル・東口〉

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「扁額でたどる琵琶湖疎水」の案内板が必ずあるので、楽しめますよ。

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〈第2トンネル・西口〉

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西郷従道(じゅうどう)は、西郷隆盛の弟ですね。西南戦争には加担せず、
明治政府に留まり海軍大臣や内務大臣を歴任した政治家です。
名前を登録する際、本名「隆興」をリュウコウと口頭で登録しようとした
ところ、訛っていたため役人に「ジュウドウ」と聞き取られ、「従道」と
記録されてしまった。しかし本人も特に気にせず、結局「従道」のままで
通したそうです。兄弟ともに太っ腹?(^_^ゞ

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〈第3トンネル・東口〉

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他にも『疎水の扁額』いろいろ。


琵琶湖疎水は、幕末の「禁門の変」で市中の大半を焼かれて、明治維新で
天皇を連れ去られ首都の座から転落した京都。その後、急激な人口減少と
産業衰退に直面。そこで、起死回生のため発案されたのが、琵琶湖疏水の
建設という大事業でした。

琵琶湖の水を京都市内に引き込み水運や発電、灌漑や上水道に利用しよう
というこの計画は、前例のない壮大な土木建築工事を必要としました。
それをやってのけたのは、工部大学校(東京大学工学部の前身)を
卒業したばかりの弱冠22歳、田邉朔郎(たなべさくろう)でした。
そんな田邉が、世界の最新工法だった鉄筋コンクリートを試したくて、
1903(明治36)年に手掛けたのが、第11号橋です。


これは、山ノ谷(黒岩)橋と呼ばれる第10号橋。
栗原邸のすぐ近くの橋です。

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日本初といわれる第11号橋の8ヶ月後に出来た橋ですが、第11号橋は
試作的なものであり、本格的な鉄筋コンクリート製アーチ橋は、
これこそ日本初ではと言われたりもします。
いずれにしろ「鉄とコンクリートの時代」と言われる20世紀の、
その初頭に世界でもまだ最先端だった鉄筋コンクリートの橋が、
110年以上の年月を経て、今でも山科疎水の遊歩道の一部として
使われているのは凄いです。(鉄柵は後に付けられたもの)

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さて、第2トンネルの東側から迂回路を通って西側へ出ると、比較的
新しい橋が架かっていますが、これは後に日ノ岡船溜を埋め立てて
造られた新山科浄水場取水池へ渡るための橋です。
その先に見えるのが「第11号橋」。

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ここも今でも歩道として利用されているので、補強と安全のため柵などが
設けられているため、全貌が見にくいのが残念。

手前には〈日本最初の鉄筋コンクリート橋〉の石碑が。
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渡ると立派な「本邦最初鉄筋混凝土橋」の石碑が建っています。
1932(昭和7)年に建てられたものですが、橋が出来てから30年後に?
実は前年に疎水の大改修工事が行われた際、京都大学教授となっていた
田辺朔郎が立ち会った時に
「そうそう、この橋は日本で最初の鉄筋コンクリートですよ」って言った
もんだから、それまでそうとは知らなかった関係者が「そんなんやったら
記念碑たてなあかんやん!」ってことになったようです。(^_^ゞ


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当時、日本人だけの手で行なわれた琵琶湖疏水建設という世紀の難事業。
田邉にとって、世界でも最先端だった工法、鉄筋コンクリートを使った
この橋の設計施工は、技術者としての探究心を満たしてくれる、楽しい
トライアルだったのかも知れませんね。

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セメントと鉄筋は輸入しながらも、他の建設資材は現地・山科に
煉瓦工場を造るなど工夫を重ね、国内から調達しました。
この橋を造るにあたっても、鉄筋は専用の材料がなかったため、
疏水工事で使ったトロッコのレールが代用されているそうです。


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今でこそ補強はされているものの、充分使用に耐えられる100年越えの
耐久性は実証されていますね♪


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2016.5/28、琵琶湖疎水(山科疎水)にて。
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文化財に住んでみる? [レトロ建築]

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一般公開のあった栗原邸(旧鶴巻邸)は2014年に国の登録有形文化財に
なっています。
現在の所有者は栗原氏なんですが「この住宅の継承者を募集しています。
ご興味のある方は最寄りの住宅遺産トラスト関西スタッフまで。」って
貼り紙があちこちに。

日本におけるモダニズム建築の先駆者、本野精吾氏の設計、鎮ブロック
による中村式鉄筋コンクリート建築・・・我が国の建築史にとっても
貴重な建造物であり、保存・修復が進められている最中に、
継承者募集とは・・・ちょっと悲しい?
「これほどわかりやすく価値が確認できる建築を継承していけない
なんて現代人として悔しい。」と、住宅遺産トラスト関西の理事も。
なんとかこの建物を後世に残したいものです。

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さて、この住宅の特徴的で最も魅力的な部屋は、玄関ポーチの上に
造られた部屋。帽子のような庇を持つ半円形に突き出たユニークな
形態が特徴です。

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外観も内から見てもインパクトのある空間、お部屋ですね。

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ここに置かれているものに限らず、建物内には本野氏がデザインした
家具・調度品、照明器具などが残されています。

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時代を感じさせるものもありますが、概ねシンプルなデザインで
近代的なもので、やはり昭和初期にしては画期的じゃないかな。

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照明器具も全ては撮れなかった、いや撮ったのですが失敗で・・・
他にもユニークなものがあったのですが。ザンネン!(^_^ゞ

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ドアノブは建築当初のものかな? でも何だか懐かしい。
特にクリスタル調のノブ、トイレに使われていましたが、
ありましたよね、これッ♪


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食堂に置かれたテーブル、これも本野氏のデザインだそうで。
可動式になっており、中央部の長方形の部分を折りたたむことで
大きさを4段階変えられ、最小の場合は丸テーブルになる。
というもので、フルに広げれば8人掛け、たたんでいくと6人掛け、
4人掛けになり、最小は2人掛けになる便利もの♪
現代でこそ似たような機能の食卓はありますが、やはり先駆けだった
のでしょうね、椅子も同時にデザインされたもので座面の布など
当時のままなのだそうです。

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家主は京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)の校長だった
鶴巻鶴一氏から広告業・萬年社社長であった栗原伸氏に。途中戦後に
進駐軍の接収で、米軍中尉の家族が10年ほど住んだ後、栗原家に
戻された変遷があり、どの時期のものかわかりませんが
生活感が垣間みれる私物も多々残されていました。

留守中にお宅拝見みたいで、いろいろ妄想してしましますね。

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このベッドも本野氏のデザインとみられ、他の部屋に置かれている
木製のベッドとは大きさもデザインも異なる真鍮製のもので、
施主であった鶴巻氏が使用していたものと思われます。


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階段脇にある大きな金庫。いつ頃まで使われていたのか、
まだ開くのかな? 
そうそう、昔はよくこんな織物を被せたりしていましたね。(^_^ゞ

3階だったかな、蔵のような厳重な2重扉になった倉庫が
ありました。座敷牢のような、仕置き部屋のような・・・
変な妄想し過ぎかな?(^_^ゞ

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バスルームは今はすっかり現代のものに変わっていて、機能も最新。
施工当時は写真のようなものだったようですが、当時としては
最新だったのでしょうね、蛇口が2つあるってことはセントラル給湯
だったのかも。昭和初期は自宅に風呂がついているのも珍しい、
あっても五右衛門風呂だったりしますからね。
トイレも現状は水洗ウォシュレット便器がついていたと思います。


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階段は建物中央奥にあり、3階まで吹き抜け。手摺もシンプルながら
装飾的な意匠が施されています。そろばんみたいだけど・・・

建物自体はコンクリートブロック構造ですが、この吹き抜け階段と
玄関ポーチ部分はさすがに強度が持たないのか、柱と梁で支える
ラーメン構造の鉄筋コンクリート造が採用されています。

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この建物の魅力のひとつに広いバルコニーが設けられていること。
2階部分は東側に。3階はルーフバルコニーになっています。

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2階のバルコニー、個人宅でこれほど広いバルコニーはなかなか
見られませんね。洗濯物いっぱい干せます?(^_^ゞ

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3階から見た2階のバルコニー。

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3階は物置、さっきの蔵のような部屋ね。があるだけで、あとは
屋上バルコニー。走り回れる広さです。手摺が低いので子供だと
危ないですが・・・

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眺めも悪くないです。もともと高台に建っていますからね。

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JR東海道線がよく見えます。夜景も綺麗でしょうね♪

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北側には琵琶湖疎水が見えます。この辺りの疎水道は桜並木。
春はお花見、秋は紅葉狩りのスポットとして楽しめる遊歩道です。

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さて、話しを始めに戻して、この建物の継承者募集・・・

それに国・登録有形文化財の位置づけ、メリット・デメリットは?
まず文化財って何?って話しになりますね。
そもそも文化財には有形文化財、無形文化財、民俗文化財、記念物、
文化的景観、伝統的建造物群の6種類があります。
●有形文化財:建造物・美術工芸品などで、特に重要とされるものを
重要文化財、その中でも貴重な価値があると判断されたものが国宝。
●無形文化財:芸能・工芸技術など、これも重要無形文化財があり、
その保持者を通称 人間国宝と呼びます。
●民俗文化財:風俗慣習・民俗芸能など。無形、有形があります。
●記念物:史跡・名勝・天然記念物など。
●伝統的建造物群:宿場町、城下町などがありますね、これはまず
市町村が伝統的建造物群保存地区を定め、その中から特に価値が高い
ものを文部科学大臣が重要伝統的建造物群保存地区として選定します。
●文化的景観:棚田や里山、日本の原風景などが該当します。
2004年の文化財保護法改正により創設された文化財のジャンルです。

国が定めたもの以外で、地方公共団体(都道府県、区市町村)の多くが
条例を制定し、重要な文化財について教育委員会が指定等を行い保護を
図っています。これもよく見ますね。

ところでこの建物は「国・登録有形文化財」というものです。
普通、有形文化財は国の厳しい審査・基準により指定されるもので、
「指定有形文化財」。しかし指定制度では身近な近世末期や近代以降の
多種多様な建造物が、その建築史的・文化的意義や価値を十分認識され
ないまま破壊される事例が相次いだことを受けて1996年の文化財保護法
改正により、従来の文化財「指定」制度に加えて、文化財「登録」制度
が創設されました。

登録有形文化財は、原則50年を経過した歴史的建造物であることと、
以下の3点のうち、いずれか1点を満たしていることが条件です。
(1)国土の歴史景観に寄与しているもの
(2)造形の規範になっているもの
(3)再現することが容易でないもの
・・・この邸宅も条件を充分クリアしてますね。

建物を活かしながら残していこうという考え方で創られた制度ですから
内装の変更や設備の更新などの規制は、指定文化財に比べると緩やか。
ですから、修復してまちづくりに活かしたり、観光資源として利用する
例も多くなっています。
ただし、指定文化財のように補助金や固定資産税の非課税などの
優遇措置はありません。地価の高い地域でのみ相続税の免除が
受けられるとかあるようですが、「ほとんどメリットはない」らしい。
おっと!最初の写真で門に付けられているパネル。あれがもらえます。
プレートには『この建造物は貴重な国民的財産です 文化庁』と
記されており、名誉にはなるでしょうが・・・
最近では文化庁系ではなく国交省系がフォローして補助金など用意、
メリットが増えつつある傾向がみられます。


さて、最後にちょっと不動産屋的な話しを・・・
栗原邸の敷地面積は約600坪、建築面積は64坪、延床面積は124坪で
3階建て。建物の背後にある林もすべてこの住宅の敷地で、
ちょっとした公園くらいの広さがある。

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玄関を入ったホールの正面に階段があり、部屋は左右に配されている。
1階・右手には客間、食堂があり、その右には施主鶴巻氏のアトリエ。
左手に居間、キッチンと女中部屋、階段脇には小さな電話室も。
2階には左右に寝室が2室ずつあり、各室は10畳程度。外から見て
半円になった部分にはサンルームがある。右(東側)にバルコニー。
3階は倉庫とルーフバルコニーに。
各室には暖炉が用意されているほか、スチーム暖房用のラジエーターも
配されて(接収当時の設備)おり、1階にはそのためのボイラー室も。
部屋によってはベッド、収納家具、椅子などが置かれている。

気になる金額は・・・交渉の余地が多々あるという前提で大台を目安に
していただけると。詳しくはお問合せください。とのことです。
私にはとても無理な話ですが、世の中広い。現に私が見学している
間に、どうやら説明を受けてらっしゃるご婦人が居られました。
一見してファッションからも一般の方とは違ったので、この豪邸に
ふさわしいかも・・・(^_^ゞ
もし、成立すればもう一般公開は今回が最後?それは残念ですが。

追記『設計者・本野精吾(もとのせいご)氏のプロフィール』


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2016.5/28、栗原邸(旧鶴巻邸)にて。
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昭和初期のコンクリート住宅 [レトロ建築]

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我が町(京都市山科区)に残る貴重な建築遺産「栗原邸(旧鶴巻邸)」が
一般公開されるというので、訪ねてみました。

そのお屋敷は山科北部の山手にあり、すぐうしろを琵琶湖疎水が
流れています。自宅からは歩いて20分ほど、実はこの先に私の
母校(高校)があり、通学路だったので見慣れた建物でもあります。
その異形からとても印象的な邸宅でした。

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建物はコンクリートブロック造、塀も同じくブロック塀です。
普段は固く閉ざされた門扉がこの日は開かれていました。もちろん、
門の中を見るのも入るのも初めてです。

10年ほど前に一般公開が始まり、ここ数年は不定期ながら毎年期日限定で
公開されるようになったので、一度訪ねてみたいと考えていました。
一昨年には国の登録有形文化財に指定されたようです。

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敷地面積は600坪とかで、庭もかなり広い。右に行けば玄関へ、左は
裏口に達しますが、斜面なのでどちらも少し登ることになります。

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この邸宅、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)2代目校長だった
鶴巻鶴一氏の邸宅として昭和4年(1929年)に建てられたもの。
設計者は同校教授だった建築家・本野精吾(もとの せいご)氏。
1941年に広告代理店・萬年社の社長、栗原伸氏の邸宅となり、
現在はご子息(伏見のお医者さん)が所有されています。
※萬年社は電通よりも古く日本最古の広告代理店でしたが、1999年に
倒産。109年に渡るその長い歴史に終止符を打ちました。

この建物で特徴的なのは、やはりコンクリート打ち放しの玄関ポーチ。
建物自体はシンプルな四角で構成されていますが、ここだけ円形に
張り出し、上はサンルームになっています。
帽子を被ったような庇もアクセントになっていますね。

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設計者の本野精吾氏は1909(明治42)年、ドイツに留学し当時欧州での
モダニズムへの変化に影響を受け帰国、図案科教授として建築のみならず
インテリアや家具・グラフィック・服飾などデザイン全般の教育に
携わりながら建築家としての活動もしたプロフェッサー・アーキテクト。
ただ多才で多趣味。船舶デザインでヒット作を出したり、音楽・舞台・
社交ダンスや南画などすべてを極めたようで、果てはエスペラント語も
使いこなすというただならぬディレッタントぶり。(^_^ゞ
そのため、生涯で残した建築作品は10点余りだとか、現存するのはここを
含めて4作品にすぎません。

ここを建てる5年前、1924(大正13)年にやはりコンクリートブロックで
自邸を建てられています。おそらく我が国最初のモダニズム建築。
これは世界的にも最先端をリードするものだったようです。
この旧鶴巻邸もコンクリートブロックむき出し、コンクリート打ち放しの
建築物は世界でもまだ珍しいもので、2007年にはモダニズム建築の保存に
関する国際組織DOCOMOMO Japanより、優れた日本のモダニズム建築の
1つとして選定され、2014年には国の登録有形文化財に登録されるなど、
近年その文化財的評価が高まっています。

この建物、2000年にその存在が発見され、現存を確認されたというもの。
実は私などは1970年前後の高校生活で毎日のように見ていたのですが、
当時すでに老朽化で傷んでおり、人が住んでいる気配も無く。
ただ不気味でミステリアス、オカルトチックな建物として見てました。
これほど貴重な建物だったとは・・・(^_^ゞ

2011年度より京都工芸繊維大学大学院の教育プログラム「建築リソース
マネジメントの人材育成」などの一環で、学生らが修復作業を行い、
一般社団法人 住宅遺産トラスト関西が活動支援しているようです。


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全景を見ることは木々に被われているため、なかなか難しいのですが
疎水沿いの道から見るとこんな感じ、通学路で見ていた風景です。

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疎水に架かる橋の上から見ると、北面のほぼ全景が見られます。
これが昭和4年に建てられたものだと考えると、とんでもなく先鋭的な
建物だったことでしょうね。


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高校生の頃、この建物が只者じゃないとは感じつつも、すでに
コンクリートブロックの塀や建物もよく目にしていたので、
これほどエポックメーキングなものだとは知らず。ただ、こんなに
デカい建物をよくブロック積みで造ったもんだなぁと。
それにレトロな風情を見せるこの建造物を憧れの目で見ていた
ことも確かです。こうして一般公開で見学できるとは思っても
みなかった嬉しいことです。

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一般公開といっても勉強会的な要素も大きく、ギャラリー・トークなども
あったようです。参加費1,000円を払うと小冊子やコピーされた資料を
渡してくれます。参加費の収益は栗原邸の修復費用に充当される
とのこと。この日もスタッフは学生さん達が大勢で。見学者も
私のように散歩がてら来た者も居られるでしょうが、全国から
この一般公開(4日間)を目指して多くの方が来られたようです。


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細かに色んな説明札も置かれているので、興味深く見ることが
出来ました。
ここで使われているコンクリートブロックは、大正時代半ばに
中村鎮(まもる)によって発明された通称「鎮(ちん)ブロック」と
いわれるもので、これを用いた中村式鉄筋工クリート建築は、
1920〜1930年にかけて、全国で119棟が建てられ、
1923年の関東大震災で、一棟も倒壊しなかったことから、
耐震性や耐火性が高く評価されたものです。
この工法、現在も見直しても良いですね。


さて、1階64坪、2階45坪、3階15坪。延床面積124坪の建物内は・・・

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まだこれから補修の必要がある部屋も多々。この部屋は染色家でもあった
鶴巻氏の仕事部屋として使われていたもので、まだ手が入ってない様子。

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この襖絵は、鶴巻氏による蠟纈(ろうけつ)染の作品。
氏は廃れていたろうけつ染を復興するなど、その染色技術や
技法の研究は、社会変化に直面していた京都の染色産業へ
大きな貢献を果たしたそうです。


こちらはキッチン。

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天井までの食器棚、これも昭和4年という時代を考えれば、とても
モダンな設えだったでしょうね。今でも充分新しい?かも。

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ちょっと失礼して引き出しなど開けて見ましたが、まだ食器や調理器が!
いつ置かれたものか分かりませんが・・・古いものじゃなかったです。

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一部、ドアや壁がペンキで塗られているのは、おそらく・・・
戦後この建物はGHQ、進駐軍により家族用住宅として接収されていた
時期があります。米軍中尉とその家族が暮らしたようですが、もともと
洋式の建物だったため、あまり改修されること無く使われたようです。
しかし内装はペンキで塗りたくられた?と考えられます。
前述の北面全景の写真で赤い大きな扉が見えますが、あれはジープを
乗り入れるため屋根付の車庫と共に設けられたものです。
ただ、中尉はフレンドリーな人柄だったようで、クリスマスの時期には
近所の子供たちを招いてパーティを行なったとか♪


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無駄な装飾を排除し機能重視なモダニズムではありますが、
シンプルながら階段手摺などには装飾的な部分も垣間みれます。

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主な部屋には暖炉がありますが、こちらもシンプル。
椅子やベッド、調度品なども多くは本野精吾によるデザイン。
長楽館のロココ調とは真逆ですね。

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久しぶりの更新、栗原邸はまだ見所があるので続きます・・・(^_^ゞ


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2016.5/28、栗原邸(旧鶴巻邸)にて。
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豪華絢爛、極上、ゴージャス。 [レトロ建築]

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贅の限りを尽くしたような旧村井別邸、長楽館の中身は・・・
それほど大きな建物では無いのですが、趣の違う様々な部屋があって
楽しめます。カフェメニューで来ても2階までは見学OK、
もちろん写真撮影も可です。
ただ、お客さんも居られるので、なかなか思うようには
鑑賞できませんけど。

建築様式から見ると外観はルネサンス様式。1階の客間〔迎賓の間〕は
ロココ調、食堂〔フレンチレストラン〕は英国ビクトリア調の
ネオ・クラシック様式。重厚な設えの〔書斎〕、ビリヤードを
興じる部屋として造られた〔球戯の間〕、
建設当時は温室だった〔サンルーム〕今はいずれも
カフェとして使われています。
2階には美術の間、喫煙の間、貴婦人の間、鳳凰の間、接遇の間
などの部屋がありますが、ゆっくり見学はできませんでした。
3階は和室で長楽庵、御成の間があるのですが公開されてません。
宿泊客は見学できるようです。
インテリアに関しては英、仏、米、中、イスラム、そして和の趣が
折中され、さながらモデルルーム?
調度品も極上の本物、30ほどが文化財に指定されています。


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〔迎賓の間〕アフタヌーンティーをいただいた部屋です。
応接間として造られた部屋、現存する日本の西洋館では
最大規模だそうです。

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シャンデリアは全館、バカラ社製だそうです。
置き時計もタダもんじゃない?

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今はアフタヌーンティー専用の部屋として、エレガントでゴージャスな
雰囲気を漂わせるロココ様式。乙女チックかな?(^_^ゞ
かつては数多くの賓客を迎えた部屋だったことでしょう。


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暖炉、寒い時季には薪で火が入れられます。他の部屋にも暖炉があり
それぞれにマントルピースも趣向が凝らされているようです。
薪による暖房、そう言えば外から見ると煙突が何本かありました。

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カメラ女子、撮影会を兼ねてアフタヌーンティーで女子会。
なんてグループも居られるようで・・・

さて、2階へまいりましょう。

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隅々まで豪華絢爛、重厚な雰囲気が凝縮されている感じ。
写真を何枚とっても足りないくらいです。

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二階の階段ホールから、もう何様式か私には分かりません・・・

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この二階にはバルコニーが備えられた〔喫煙の間〕と呼ばれる部屋が。
さすが煙草王・村井吉兵衛別邸、建物の中心的存在?

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扉の上にはステンドグラス。天井にはシャンデリア・・・なのに

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なぜか壁や置物は中華風。
観音開きのドアにもステンドグラス、床はイスラム風のタイル張りに。

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バルコニーはこんな感じ、桜の季節は最高でしょうね♪

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二階のサンルーム、建設当時はバルコニーだったそうです。

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〔喫煙の間〕を挟んで〔美術の間〕と〔貴婦人の間〕があります。
どちらも入りませんでしたが、当時は美術室、村井夫人の部屋として
使われていたもので、今はカフェやパーティ会場に使われています。


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伊藤博文揮毫の扁額が飾られています。実は「長楽館」と名付けたのは
彼だそうで。竣工直後に訪れた際
「この館に遊ばば、其の楽しみやけだし長(とこし)へなり」と
感想を述べ、扁額に館名を揮毫されたものです。

貧しい煙草商の次男として生まれ、煙草王と呼ばれるまでに登り詰めた
村井吉兵衛。煙草産業が国家による専売制になった後、
その莫大な補償金を元手に村井銀行、東洋印刷、日本石鹸などの事業を
設立し財閥を形成するも、昭和に入りすぐに起った金融恐慌により破産。
没後、豪華絢爛を誇ったこの館も売却されます。
明治、大正、昭和を駈けた一代記をこの残された館が語っているようにも
思えます。

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虎は死して皮を留め人は死して名を残す、名前ばかりでなく明治の
成り上がり、実業家の中にはこのような文化財を残した方が多いですね。
もちろんこの館に惚れ込み買い取って現在の姿にした先代オーナー、
現オーナーの情熱があってこそ、こうして観賞できるのですが・・・

珈琲、紅茶が1杯864円、高いようですが入館料込みだと思えば・・・

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日本の洋館は西洋への憧れと、その文化に追いつきたいとする
バイタリティを感じることができるし、真似では終わらない匠の技も
感じたりします。そんなところが魅力です。
もともとバタ臭いものが好きですが、最近は「百年名家」で紹介される
ような和風の建物にも大いに魅力を感じますが・・・


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2016.4/16、長楽館にて。
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想いは遥か、百年の夢幻。 [レトロ建築]

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円山公園の一角にある長楽館、レトロな洋館建てが目を引きます。
この建物、明治42(1909)年にアメリカ人建築家のJ.M.ガーディナーの
設計で建てられたもの。依頼主は明治のたばこ王・村井吉兵衛です。
さて、107年前にタイムスリップです。

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かつては村井吉兵衛の別宅として、国内外の賓客をもてなすための
迎賓館の役割を果たすべく建てられたもので、伊藤博文、大隈重信や
山県有朋など明治の偉人たちや英国皇太子ウェールズ殿下や米国財閥
ロックフェラーなどなど名だたる賓客が多数訪れた館です。

現在は、私たちでもレストランやカフェ、ホテルとして利用すること
ができる『長楽館』。一度行ってみたいと思い、訪ねてみました。


訪ねたのは先月半ば、まだ円山公園には八重桜がなんとか咲いていました。

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名残りを惜しんでのお花見があちこちで。このグループは女子会?

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こちらはお決まりの隣国観光客、なんかなぁ着物姿です。


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時代が時代なら私ら市井の人間が門をくぐることも許されなかった?
今は予約さえすればマイカーで堂々と入って行けます♪

この館誕生から107年、現代に至るまでの経緯、物語を辿ると・・・
建築主・村井吉兵衛は幕末の京都に生まれ、煙草の行商から身を立て
日本初の両切り紙巻き煙草を製造、煙草王と称されるまでになります。
当時のたばこ産業は製造業者が5000人ほどいたと言われる過当競争。
その激戦を勝ち抜き、生産日本一に。パリ万博で金賞をとるなど
世界的評価も得たようです。

しかし明治37(1904)年、日露戦争の戦費調達のため「煙草専売法」が
施行され、官営化されてしまいます。その際、明治政府から煙草商へ
莫大な保証金が支払われた。村井吉兵衛は全補償額の45%以上を手に
することが出来たようで、それを元手に長楽館の建築や銀行などの
事業を展開することになります。
長楽館には国内外の賓客、各界の錚々たる人物が集い、鹿鳴館を
しのぐともいわれた華やかな時代もありました。

それも束の間、吉兵衛没後の昭和2(1927)年には昭和の金融恐慌の
煽りで村井銀行が破産、長楽館も売却されます。
その後、何人かの手に渡ったようですが、昭和29(1954)年、現在の
オーナーの義父、土手富三が土地・建物を購入。
この建物に並々ならぬ情熱を持っていた土手氏、前の持ち主を5年も
かけて口説き落とし手に入れたのだとか。
購入時は進駐軍の接収を経ていたため、壁にはペンキが塗られ、
ぼろぼろだったようで・・・
私財を投じてひたすら修復に情熱を傾けた先代オーナー、購入から
10年余、隣接地にホテル・レストランを建設、開業。
昭和43(1968)年には、本館にて喫茶店開業に至ります。その後も
一部屋づつ改修を進め、3階までの修復が終わったのが昭和55年頃。
昭和61(1986)年に、館とその調度品の多くが京都市指定有形文化財に
指定されるに至ります。
現在も改装が続けられ、今年2月に全室リニューアル・オープン
されました。


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外観はルネサンス様式で、1階部分が石張り、2階・3階がタイル張りに
なっています。正面から見ると意外とシンプル。

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設計者のジェームズ・マクドナルド・ガーディナーは、米国人宣教師。
教育者として現・立教大学の第3代学長も務めましたが、
学長を退任後、建築家として活躍します。
代表作は「外交官の家(旧内田家住宅):横浜」「聖アグネス教会:
平安女学院聖堂」「京都聖ヨハネ教会教会堂:明治村に移設」など

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エントランス・ファサードには、イオニア式の柱頭、デンティルと
呼ばれる歯形飾りも観られる。上部はバルコニーになっていて、
玄関入口には村井家の家紋・丸に三つ柏があしらわれています。

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側面の出窓やバルコニーが美しい。

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前庭には大きな石灯籠や五重塔が置かれ、まさに和洋折衷。
これも海外からの賓客を楽しませるためだったのかな?

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ちなみに、村井吉兵衛ゆかりの建築が幾つか残されているので
機会があれば訪ねてまわりたい。
残念なのが明治33(1900)年築の東山・馬町にあった煙草工場。
赤煉瓦造りの貴重な建築物だったのに、2009年に跡形も無く解体
されてしまった。『2006・京男雑記帳』
煉瓦ファンにはショッキングな記事?『解体現場』



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2016.4/16、長楽館にて。
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