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祇園さん、スルーっとある記 [京都うろうろ]

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円山公園の地下駐車場にクルマを停めて、八坂神社(祇園さん)が
目的地じゃ無かったので、通り抜けただけですが・・・

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京都ではやはりメジャーな観光スポット、観光コースから外せないかもね。
八坂神社は、全国にある八坂神社や素戔嗚尊(スサノオノミコト)を
祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社で、7月の祇園祭(祇園会)で
知られる京都を代表する神社のひとつ。
元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、
明治になり「八坂神社」と改められた。
それで今でも「祇園さん」が通り名になっています。

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〈西楼門〉

京都に生まれ育ち、住み続けること60余年。恥ずかしながら私はまともに
参拝したことが無い・・・改めて写真を撮るのも初めてかも。(^_^ゞ
昔は修学旅行生、今はそれに加えて近隣外国人の和装姿が多く見られて、
京都観光には欠かせない観光地なんでしょうが、
私のようにここの氏子でもなく、祇園祭の鉾町に住まない人間には
これほど有名であっても、意外と関心がない。
想い出を辿れば、子供の頃、姉が白朮(おけら)参りに行ってたことかな。
実は私は祇園祭すら山鉾巡行などほとんど見たことが無い・・・
ま、個人的に祭りや人混みが嫌いってこともあるのですが。

四条通の東の突き当たりにある「西楼門」、八坂神社の顔ですが
正式には本殿が正面にある「南楼門」(只今工事中)が正門です。
この西楼門には20段ほどの石段があり、その先に建っています。
だから東大路四条の交差点を「祇園石段下」と呼んでいる。
京都で「石段下(いしだんした)」と言えばこの界隈のことを指します。


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〈随身像〉
お寺の仁王門なら仁王像(金剛力士像)が立っているところですが、
こちらは左右に随身(ずいじん)が控えています。雛飾りのようにね。
随身とは、近衛の舎人で貴族の外出時に警護のために随従する役目の人、
要はガードマン、SPですね。
雛飾りの場合、右大臣、左大臣なんて言いますが、間違いかもね。
位の高い左側(向かって右側)は、ベテランの随身さん、
右には(向かって左)若くて派手な衣装の随身です。これが、右大臣・
左大臣と誤解する原因かも知れません。

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お籠のように見えるから、古くは籠門(かごもん)と呼ばれていた
そうです。・・・籠に見えるかなぁ?(^_^ゞ

西楼門の門前には重厚な青銅製の狛犬が置かれていますが、
内側にも立派な石造りの狛犬が見られます。

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現在、門前にある青銅製の狛犬は八坂神社の社宝である鎌倉時代の
ものをモデルにして造られ、大正15年に設置されましたが、それまで
門前にあったのがコチラの石の狛犬。明治15年に造られたものです。
2体の台座には玄武・青龍・朱雀・白虎の四神の浮彫りがあり、コチラも
素晴らしいものですね。


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境内にはいつも露店が出てますね、たい焼きやフランクフルトって
京都の名物でもなんでもない。匂いも漂ってるし、石灯籠も見えへん!
ここは疫神社や太田社など摂社・末社があるのに・・・
この日はまだ少ない方でしたが、景観も台無しのような気がします。
ま、寺院と違い神社の在り方としてはアリなんでしょうが・・・

〈本殿・側面〉
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      〈舞殿〉修復工事中なのは南楼門。

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〈本殿・正面〉

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摂社・末社もいろいろ取り揃えてございます。(^_^ゞ
大国主社は、縁結び。刃物神社は縁切りのご利益がある…とかね♪

有名な摂社は、ご祭神が蘇民将来の「疫神社」、素戔嗚尊の荒魂を
祭神とする「悪王子社」など。末社では「美御前社」が一番人気かな。
美しくなれるという神水「美容水」というのが涌き出しています。

「祇園のえべっさん」も商売繁盛で親しまれている末社です。

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〈北向蛭子神社〉

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      〈絵馬堂〉
北門の鳥居をくぐって直ぐにある絵馬堂。
石鳥居は南楼門の前にもあります。

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八坂神社は、東西南北に入り口があり(東は2ヵ所)、24時間、年中
開放されている観光スポットです。いつでもおこしやす♪

同じように円山公園も四六時中、開放されている公園です。
西は八坂神社と、北は知恩院と隣接した京都最古の公園で、
国の名勝にも指定されています。有名な枝垂れ桜もあり、
京都のお花見宴会のメッカだったりします。祇園円山の夜桜、若い頃
一度だけ行きましたが、酔っぱらいを見るの好きじゃないので・・・
それ以来、行ってません。

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園内に料亭や茶店が多数点在しているのも特徴でしょうか。

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訪ねたこの時は3月初め、桜どころか梅もこんな具合・・・
屋根の三毛猫がラブリィな風景でしょ♪

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公園にゃんこもゴロゴロと・・・

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薄目開けて、倒れてネコんでるわけではニャイ。ちょっとお昼寝子ね。

公園の地下(一部)が駐車場になっています。出入り口はこんな感じ。

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何だか防空壕跡みたいな・・・。

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他にもあちこちに石積みがあるのですが、煙突が付いていたりするので
地下駐車場の空気抜き?それにしては、大袈裟なような・・・
これが何なのか、どうしてこんなカタチなのか謎。
正体不明の石積み、気になるな。誰かご存じないかな?


さて、石段下のあのお店に入るとするか・・・
西楼門の青銅製狛犬越しの祇園石段下交差点、テッパンのアングル?

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2016.3/6、八坂神社にて。
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わいわいかいわい、六角あたり。 [京都うろうろ]

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京都文化博物館(三条通)へ「実相院門跡展」を観に行ったのですが、
三条通の北、姉小路通は以前レポしたので。今回は三条通より一筋南の
東西の通り・六角通を少しだけ歩いてみました。
雨が降っていたので、まともなレポは出来ませんでしたが・・・

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三条界隈は明治の遺構が多く観られる「界わい景観整備地区」、
文化博物館別館の旧日本銀行京都支店(重文)もそのひとつです。
日本銀行本店や東京駅、大阪市中央公会堂などを設計した辰野金吾と
その弟子・長野宇平治の作品です。

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観るたびに色々と発見できて奥が深い建築、一度徹底的に写真を
撮ってみたいです。できれば館内も・・・。以前は撮れたはずなのに
この日は駄目って言われた。イベントをやっていたからかな?


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〈錦市場〉
昨年、開業400年という古くから京都の台所を担って来た商店街。
相変わらず賑わっていますが、今は観光スポットとしてね・・・


〈ホブソンズカフェ 京都四条富小路店〉アイスクリーム屋さん?
店内で京町家の風情を味わいながらいただけるようです。
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〈まるさんかくしかく〉
どうやら閉店したようだ。もとは木綿問屋、築100年は超える商家を使い
雑貨、カフェ、レストラン、ギャラリー、美容室が入る複合店舗に
なっていたはず。若い女性の観光客で賑わっていたのですが・・・


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〈富小路通蛸薬師下ル〉
ビルとビルの間にあるお宅。大塀造(だいべいづくり)の住居?
二階の外壁が渋い色のタイル張りで印象的です。


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〈富小路蛸薬師角〉
ここも個人邸かな?二階の設えが気になりました。

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大塀造ですね、電柱が邪魔ですが右側で一段高くなっているのが
玄関かな、その右側は塀では無いですが庇が付いていて、塀のように
見せてバランスを取っている。庇の下は吊り出格子になっていますね。
ぐるっと駒寄せ(柵)が廻らされて、相当裕福そうな町家です。


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一変、こちらは洋館建て。しかも、もじゃハウス。(^_^ゞ

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〈革島医院・麩屋町通蛸薬師上ル〉
麩屋町通(ふやちょうどおり)を歩いているとハーフティンバーの
外観や円筒形の塔屋などが通りに面していて、蔦のからまった建物は
否応なしに目に入ります。

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この建物は1936(昭和11)年に建てられた個人医院。今は右に新しい
建物があって、ここは住居として使われているのかな?
建築趣味の初代院長が留学先のドイツの城郭をモデルに、近代建築を
数多く手がけた「京都あめりか屋」に発注したものだとか。


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〈宮脇賣扇庵・六角通富小路東入ル〉

創業1823(文政6)年、京扇子の老舗です。
虫籠窓に紅殻格子、表に張り出した床几など、古き良き京の面影を
とどめる近世の町家そのままの店構えで、観光ルートとしても
知られているのだとか。

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      〈万足屋きむら・蛸薬師通麸屋町東入ル〉
1920(大正9)年創業以来、京友禅を中心にお着物の別染め・お手入れ・
お直し等をはじめ暖簾・風呂敷の染めや和雑貨の販売をされてます。


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〈金翠堂・六角通富小路角〉
いつも気になるんですよね、このお店。画材店だからかなぁ・・・

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入ったことは無いのですが、おそらく大正期の建物。
今でこそレトロですが、当時はモダンなセンスを感じられたのでは。
特に窓の設えが凝っていますね。

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和洋折衷、新旧混合・・・なんとも摩訶不思議な魅力を感じます。
できれば長く維持保存してもらいたいものです。


〈丸平大木人形店・六角通柳馬場東入ル〉ここは看板だけね。(^_^ゞ
江戸明和年間に創業の有職御雛京人形司、現在7代目。皇室、旧家を
はじめ、良家のお嬢様が揃えた雛人形。見るだけでも価値がありますよ。
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〈大極殿本舗 栖園・六角通高倉東入ル〉
1885(明治18)年創業の京菓子店。京都で「春庭良Castella」と言えば
ここ。大丸百貨店横の本店とこの六角店でしか売っていません。
有名百貨店のバイヤーさんから出店要請があっても、お店のポリシーで、
お断りしているそうです。
六角店は、店主宅の築140年の町屋を改装して開いたお店だそうです。


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2016.2/20、六角通界隈にて。


ちょっと面白い本があるので、ご紹介。

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あこがれを集める歴史の都・京都! そんな古都を「きらい」と明言する
のは、京都生まれ京都育ちの著者。右京区花園に生まれ嵯峨で育った
著者、京都人(洛中人)から「洛外人」とさげすまれてきたという。
そんなディープな千年積もった洛中人の毒や、中華思想、姫と坊主、
東京“外資系”、寺と花柳界、古都税、怨霊鎮め、町屋の闇…など、
「こんなん書いてええのんか?」という衝撃のブラックな京都論。

洛中人、洛外人?他所の方にはちょっと理解できないかと思いますが、
生粋の京都人(=洛中人)とは、洛中にある家に4代以上前から住み
続けている人のことだとか。4代以上というのは、生粋の江戸っ子が
3代だというので、そやったら京都人は4代以上やないとな。って
ことかな?(^_^ゞ
洛中という定義は、これは曖昧ですが・・・鉾町で毎年祇園祭に参加して
いる地域?住所に上ル下ルが付く碁盤の目状が残っている地域。
もう少し拡げると、東西南北で言えば東大路・西大路・九条通・北大路
ってことかな?
本の中で嵯峨育ちの著者は西陣の某氏から嵯峨者のくせに京都弁を
あやつるのは身分不相応・・・みたいなことを言われたとか。
国立民族博物館の初代館長であった西陣の某氏、全国の方言が聞ける
機械に自ら京都弁を吹き込んだ。それを聞いた中京の某氏は「京都を
西陣のやつが代表しとるんか。西陣ふぜいのくせに、えらい生意気
なんやな」、西陣あたりが京都人をふるまうのは片腹痛いと・・・
何ともディープな洛中人の生態。

いずれにしろ嵯峨や花園は洛外、何せ京都市に編入されたのは昭和に
なってからだし。かくいう私も京都に生まれ育った人間ですが
生まれたのは太秦、育ったのは山科で・・・著者よりもまだ洛外。
山科に関しては本にも、洛中で婚期を逃したオールドミスが、お相手の
ハードルを下げるうちに「とうとう山科の男から話しがあったんや。
もう、かんにんしてほしいわ」と言ったとか・・・
山科に嫁いだ京女さん、毎日泣いて過ごした「京都に帰りたい」と。
確かにね、昔ならありそうな話し。京都市内でありながら山科や伏見の
人間は洛中市街に行く時「京都に行く」って言いますもん。(^_^ゞ
私は6歳で山科に越してきたが、まだ住所は京都市東山区山科だった。
東山が西にあるのにね。山科区になったのは23歳の時でした。

千年の古都のいやらしさ、ぜんぶ書く・・・この本、洛中洛外問わず
京都を知っている人、京都に少しでも興味がある人にはとても面白い。
去年の秋、発売約1か月で6刷の増刷を重ね(今年3月で第11刷発行)、
関西圏を中心に異例の売れ行きを見せているのだそうです。



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三十三間堂廻リ町 [京都うろうろ]

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熊本・大分を中心にした九州地方の大地震、被災された皆様には、
心からお見舞い申し上げます。
未だおさまらない余震、交通網、ライフラインの復旧もままならず
避難されている方々の不安、いかばかりかと心が痛みます。
私に出来ることは何か、を模索しつつ今は見守り、応援するだけですが



う~ん!まだ三十三間堂の記事が残っていました。
ちょっと京都の地震事情も加筆してアップしてみます。

三十三間堂の東側は、三十三間堂廻り町と言います。まんまですが!

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東大門(ひがしおおもん)から続く修復されたばかりの回廊塀。
その先に見えるのが南大門(みなみおおもん)重要文化財建造物です。

〈南大門〉
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      〈太閤塀〉
三十三間堂の門なのですが、境内から一度出ないと観られない・・・
大きな門です、普通乗用車・軽・ライトバンは通行可。

現在はこのように三十三間堂の南東角の外に建っていますが、
そもそも豊臣秀吉が造営した大仏殿・方広寺の南門として造られた
もので、秀吉没後、秀頼がこの位置に移したと伝えられています。
三間一戸の八脚門で、それに続く築地塀(太閤塀)は屋根瓦には
五七の桐の紋があります。
熱田神宮(名古屋市)の信長塀、西宮神社(西宮市)の大練塀と
並び、日本三大塀のひとつなんだそうです。


南大門からの通路を挟んで、東側には一見、塔頭かなと思われる寺院が
並んでいます。

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二軒並んでいるのですが、その内のひとつが「養源院」。

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おぉ!「桃山御殿 血天井」の文字が・・・(◎_◎;)

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今は浄土真宗遣迎院派の寺院ですが、このお寺の見所は
こんな1枚の高札だけでは済みません。
一時代の歴史と芸術のエキスがぎゅうぎゅうに詰まっています。

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今はそれほど大きなお寺では無いですが、1594(文禄3)年に豊臣秀吉の
側室・淀殿が父・浅井長政らの二十一回忌の供養のために秀吉に願って
創建したのが始まりです。
一度は落雷のため焼失しましたが、淀殿の妹で徳川秀忠の夫人であった
お江(後の崇源院)の願いにより、1621(元和7)年に伏見城の遺構を
移築して再興されました。以降は徳川家の菩提所となり、2代秀忠から
15代慶喜まで徳川幕府歴代将軍の位牌が祀られているそうです。

ちょっと複雑な浅井三姉妹、大河ドラマ『江~姫たちの戦国』で
描かれていましたからご存じの方も多いでしょうが、簡単に整理すると
近江北部の戦国武将・浅井長政は織田信長の妹であるお市(おいち)と
政略結婚しましたが、後に信長との同盟に離反し“姉川の合戦”で、
織田・徳川の連合軍に敗れ、自ら命を絶ってしまいました。
その後、残されたお市は清洲会議の承諾を経て信長の重臣・柴田勝家の
後妻となりますが、勝家と秀吉が対立、賤ヶ岳の戦いで敗れたため、
勝家とともに自害。残された三姉妹はお市の遺言で、秀吉に託されます。
茶々(淀殿)は秀吉の側室となり、豊臣秀頼を産み。次女・初(はつ)は
京極高次の正室に。三女・江(ごう)は後に徳川二代将軍となる徳川秀忠
の正室になり、三代将軍・家光、中宮源和子(後水尾天皇の中宮(正室)
となり、明正天皇の生母)たちを産みます。

ちなみに養源院を再興した徳川秀忠って人物、秀吉の小田原征伐の際、
家康から出された実質上の人質ですが、秀吉の養子的な扱いによって
秀忠という名前も秀吉がつけたもので、豊臣姓、羽柴姓を名乗っていた
時期もあります。関ヶ原の戦いでは真田の上田城攻めに失敗、関ヶ原に
間に合わなかったり、大阪の役でも真田丸に苦戦するなど、今年の
大河ドラマにも出てくるでしょうね・・・(^_^ゞ
結果的には総大将として大阪城を落城させ、豊臣家を滅ぼしますが、
豊臣秀頼の正室として実娘・千姫を嫁がせていますから、考えてみると
妻の姉と義理の息子を攻め、死に追いやったことに。
千姫は落城寸前の大阪城より戻されていますが・・・

ところで、養源院に置かれている秀忠とお江の位牌には「桐:豊臣」、
「葵:徳川」「菊:天皇家」の家紋がついていて、他では見られない
ものなのだとか。複雑さが窺い知れますね。

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養源院は豊臣秀吉、淀殿が創建した寺院ですが、豊臣家滅亡の数年後、
1619年に落雷で焼失。1621年に徳川秀忠、お江(崇源院)が再建、
徳川家菩提寺として江戸時代を通じ、特別な寺院だったようです。
将軍家や大大名という身分の者だけに参拝が許されており、養源院が
発行する「桃山の印」が押印されている証書は、要求通りに幕府から
資財を調達できたといいます。

さて、今は誰でも拝観料を払えば拝観が許されるので・・・しかも
ガイドさんの案内付です。録音テープによる説明もありますが。(^_^ゞ

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血天井は後に回して、私的にはこれが観たかった♪
俵屋宗達の描いた「杉戸絵」。杉の板戸に彩色されたもので、
線に見える部分は色が塗られてなく、板のままだったりします。
「獅子」「白象」「麒麟」が、それぞれ1枚の杉戸に1頭ずつ描かれて
おり、2枚1組になっています。
撮影は禁止されているので、写真は拝観料を払ったらもらえる絵はがき。
杉戸絵は6種あるのかな、販売もされていたと思います。
この他にも本堂松の間では宗達の「金地着色松図」が観られます。
部屋の中央に座れば4面の襖絵が3方に、合計襖12面に囲まれますが
10人ほどのグループで案内が進められますから、マイペースで観られ
ないのが、ちと残念。杉戸絵ももっとじっくり観たかったな。

養源院、本堂の廊下は左甚五郎が手がけたと伝わる「うぐいす張り」、
庭園は小堀遠州作庭と、当時売り出しの人気アーティスト勢揃い?
再建にあたり徳川家の菩提所に相応しいよう集められたのでしょうね。


さてさて、メインの見せ物?「血天井」ですが、これも少し経緯を
整理する必要があるかな・・・
簡単に言ってしまえば、1600(慶長5)年、関ヶ原合戦の前哨戦で
伏見城が落城した際、家康から同城守備を命じられた鳥居元忠以下の
380余名が討死、自刃した時の床板を天井に用いたものと言われ、
俗に血天井と呼ばれている。
ここの他、京都の数カ所以上のお寺に残されているようですが・・・

そもそも伏見城とは、すでに大阪城を築城、関白の位と京都における
政庁聚楽第を豊臣秀次に譲った秀吉が、大阪と京都を結ぶ要衝の地で
あった伏見に自らの隠居所として屋敷構えの城でした。
ただ、最初に築かれたこの城は秀吉が入城、1596年に完成しましたが
その直後、慶長伏見地震によって倒壊。ここだけでも600名近い死者が
出たとか。秀吉一家は無事に助け出され、近くで避難生活をしていた
ようです。
京都を襲ったこの地震では秀吉が創建した方広寺に安置するはずだった
東大寺大仏をしのぐ大仏が開眼前に倒壊しています。

この慶長大地震、1596年9月1日に愛媛(伊予)でM7.0の地震が発生。
その3日後の9月4日には大分(豊後)でM7.0~7.8の地震を起こし、
翌日9月5日に近畿地方を襲ったもので、淡路島~神戸~大阪北を走る
六甲・淡路島断層帯での地震と考えられています。
余震は翌年春まで続いたとか。
中央構造線沿いの連鎖地震、今回の熊本・大分の地震と無関係とは
思えませんね。ちなみに慶長年間には1605年に紀伊半島沖と房総沖が
連動したM8.0の地震津波、1611年、会津地方で直下型地震、同年に
三陸沖を震源とした地震、大津波も。1614年にも広範囲の地震が
記録されているとかで、18年の間に度重なる地震被害が出ています。

伏見城の話しに戻ると、地震で倒壊した当初の伏見城、火災は起きな
かったので、その資材を再利用してすぐに再建にかかります。
すでに捨丸(秀頼)が誕生、秀次を追放・切腹させ聚楽第も破却し、
淀城などからも資材や建築物を移築、同時に大土木工事も行ない
城下町も整備された本格的な城構えが超ハイスピードで築造された
ようです。完成した伏見城は日本の城郭史上、最高の豪華絢爛な
ものだったとも・・・しかし在城期間わずか4年、秀吉はこの城で
5歳の秀頼を残して病死します。

秀吉に秀頼の行く末を託され、約束していた徳川家康、五大老の
前田利家が翌年に病死すると、全権掌握?。すぐさま石田三成を
追放し、伏見城へ留守居役として入城。
間もなく、幼い豊臣秀頼の居城・大阪城へと移り実質上の天下人の
ふるまい。そりゃおかしい、あかんやろ!と、三成が蜂起の動きを
見て取ると、1600年、家康は上杉景勝征伐に会津攻めに向かいます。
案の定、三成は反家康派の諸大名を叫号して挙兵、大阪城を制圧し、
伏見城明け渡しを迫るが、伏見城を任されていた徳川譜代の家臣・
鳥居元忠を総大将とする1800名の兵が4万の大軍を相手に徹底抗戦。
落城まで2週間近く足止めするという予想外の奮戦をみせるが、
内通者により火をつけられ、支えきれず鳥居元忠はじめ、380余名が
討死に自刃した。武将達の遺体は夏場1ヶ月以上も放置されたとか。
その血が城内の床板に沁み込み、痕が残ったと言われます。
将兵達の霊を供養するため、その床板を天井に上げたものが
「血天井」です。
今も生々しい血の痕があちこちに残る血天井、ガイドの方が棒などで
指し示し、これが手の跡、足はこっちね。これで一人分、こっちの
跡は首が無いでしょ・・・などと丁寧に説明してくれます。

この伏見城の戦いは家康の“仕掛け”だったとも言われてしますね。
これで敵が誰かを把握できた。鳥居元忠が奮戦、足止めをしてくれた
お蔭で、敵側諜略の準備の時間が稼げた。現に家康は会津に向かわず
江戸城に留まっていたようですから・・・
この約1ヶ月半後、満を持して決戦の地、関ヶ原へ向かいます。
ところで、捨て駒になった鳥居元忠。家康より4歳歳上で13歳の頃より
家康に仕えていた古参中の古参。家康に頼まれこの役割の意味を
承知した上で、命と引き換えに家康の天下取りを援護したもので、
家康はその忠義を「三河武士の鑑」と賞賛。この時の血染めの畳を
江戸城伏見櫓の階上に置き、登城した大名たちに元忠の忠節を
偲ばせたのだとか。同じような意味合いであちこちの寺に血天井を
置かせたのかもしれませんね。

ふぅ~っ、やっと養源院の解説が終えられそうです。(^_^ゞ
少し他も見て回っとこ。

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〈毘沙門天〉と〈白衣弁財天〉

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〈勅使門?〉・・・勅使門(北門)からの参道の奥にある門です。


さて、お隣りの『法住寺』も入ってみますか・・・

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三十三間堂の東向かい、養源院の南隣りにあります。今は小さな寺院
ですが、ここも歴史の波に翻弄された寺院なので詳しく調べると・・・
今回はちらっと寄っただけなので簡単に。(^_^ゞ

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988年、平安中期に藤原為光によって創建された寺院ですがその後、
後白河上皇が院政を行なうため広大な院御所を造営。その南殿として
法住寺殿が築かれ、蓮華王院(三十三間堂)などと同じく包摂された
ものとなります。上皇と平家の栄華を象徴する法住寺殿でしたが、
20余年後には木曾義仲により攻められ、焼失。(法住寺合戦:1183年)
後白河上皇は逃亡し、平家も都を追われます。
1192年、上皇崩御により法華堂がつくられ、御陵とさだめられます。
現在の法住寺の北に隣接したところに後白河天皇陵がありますが、
平日しか入れないようです。

そう言えば、法住寺合戦の2年後、1185年には文治地震M7.4が発生。
平忠盛(清盛の父)が鳥羽上皇(後白河上皇の父)のために造営した
得長寿院・三十三間堂が崩壊しています。ちなみに壇ノ浦の戦いで
平家が滅亡したのがこの年です。

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豊臣政権下では、秀吉が造営した大仏殿・方広寺の寺領に包摂されます。
江戸時代は徳川の庇護があったようです。
元禄期には赤穂浪士・大石内蔵助がこの法住寺に参拝したと伝えられ、
その縁から四十七士木像が安置されています。
そう言えば大石内蔵助は、前述の血天井・鳥居元忠の子孫なんです。
忠臣のお家柄?それにしても縁がありますね。

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後白河上皇を守った「身代わり不動尊像」、毎年5月1日から7日に
御開扉され参拝できる「後白河法王御木像」、親鸞聖人が自ら刻んだ
阿弥陀如来立像、聖人座像(蕎麦喰いの御像)などなどあるのですが。

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竜宮門ですね、旧御陵正門の石標が立っています。
「あそびをせんとやうまれけん」と彫られた石碑もありましたよ。

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なんと!このお寺、サザエさんの作者・長谷川町子さんの遺骨が安置
されています。生前、訪れた時に気に入られたということで。
サザエさんやタラちゃん、ワカメちゃんなど、直筆のイラストも
飾られているそうです。気がつかなかったけど・・・

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ここを訪ねたのが2月14日、早くも梅の花が満開♪だと写真を撮った
のですが・・・アップするのが今になるとは。(^_^ゞ


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三十三間堂の駐車場に停めて養源院と法住寺も訪ねようと思っていた
のですが、一応ルール違反ってことで。国立博物館の有料駐車場に
停めてから行ったのですが、養源院も法住寺にも無料駐車場が
あったみたいです。

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智積院(ちしゃくいん)にも無料駐車場があります。
いずれ訪ねてみたいと・・・ここも充分前調べする必要がありそうです。
見落としがないようにね。(^_^ゞ
ここの寺紋は加藤清正の桔梗紋なんですね。
加藤清正といえば、熊本城。日本三名城のひとつですが、
今回の地震で・・・
すでに日本財団が熊本県や大分県の被災者に93億円規模の緊急支援を
行うと発表。このうち30億円は熊本城の再建に充てるそうです。

日本は自然災害の多い国です。日本人はそこから復興、立ち直る術を
学び、知っている民族だと思います。それは支え合うことが大切だと。
今回も大災害、家族や家を失い、生活すらままならない被災された方の
気持ちを考えれば、いたたまれないです。
直接何もできませんが、わずかばかりの支援募金、それと応援すること
くらいですかね・・・こういう時こそインターネットは力を発揮できる
と信じたいです。

くまモンがネット配信を自粛してますね。そんなくまモンを応援する
イラストメッセージ、素敵だと思います♪『くまモン応援』
「クマモンがクマっている 助っ人にいくベア」


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2016.2/14、三十三間堂にて。
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三十三間堂、算数計算どぉ? [京都うろうろ]

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行かれたことがある方も多いでしょうね。天台宗妙法院の境外仏堂、
通称:三十三間堂。
本堂は国宝、中には国宝の木造千手観音坐像、木造風神・雷神像、木造
二十八部衆立像と重文の木造千手観音立像(1001体)が詰まっています。

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後白河上皇が平清盛に命じて1165年に創建したもので、もともとは
院政を行なう離宮として建てた法住寺殿であり、その本堂でした。
創建当初は五重塔などもある本格的な寺院だったようです。

〈法住寺殿(ほうじゅうじどの)・址碑〉
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後白河天皇は在位わずか3年で譲位した後、上皇となり後白河院として
34年に亘りここを院御所とし、院政を行ないました。
当時の法住寺殿は広大なもので南殿、西殿、北殿の三御所があり、上皇の
住まいがあった南殿に建てられたのが蓮華王院(三十三間堂)です。

当時は大きな池があったようですが、今は名残りだけ・・・

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後白河院の治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ
二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止
に追い込まれますがそそのたびに復権を果たした後白河院。
大河ドラマ・平清盛をご覧になった方は思い出して下さい、松田翔太を。
印象的だった伊東四朗は白河上皇ですからね。(^_^ゞ

ま、この頃は平安末期、権力争いで乱れに乱れていたので、なかなか
頭の整理が難しいです。この法住寺殿も1183年、木曾義仲の夜襲により
焼失します。ただし三十三間堂は奇跡的に焼失を免れました。

法住寺殿は1191年、源氏の援助により再建されますが、後白河院は
戻ってすぐに体調を崩し、翌年1192年春に崩御されます。
この年号、1192年。私らは「いい国作ろう鎌倉幕府」の語呂合わせで
日本初の武家政権、鎌倉幕府成立の年として覚えたのですが・・・
今は「いい箱作ろう鎌倉幕府」、1185年が新定番のようですね。
しかも初の武家政権ではなく平氏の武家政権に次ぐ。となっている。


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〈法然塔・名号石〉        〈写経奉納塔〉
後白河法皇の13回忌にて、法然上人が「六時礼讃」という法要を
修したことを記して建てられた石塔。(鎌倉時代)
参集の人々に紙筆を与えて写経を勧めたという。
南無阿弥陀仏と刻まれた文字は法然上人の筆跡から起こしたもの。

      〈夜泣き泉〉
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平安時代、堂僧が夢のお告げにより発見した。夜、水の涌く音が
人のすすり泣きに聞こえることからこの名が付いたという。
やがて地蔵尊が祀られ、子どもの夜泣き封じの信仰が生まれました。

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〈手水鉢〉
「いつも冷たくて美味しく、お腹を痛めることのない極楽井で、
汲んでも尽きず、汲まないときも余ることのない不思議な泉」と
古今著聞集に記されているそうです。
あくまで伝承で、今は当時と位置も違い飲料水ではありません。

〈鐘楼〉
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      〈東大門〉

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〈東大門からつづく回廊塀〉

修復されたばっかりか(一部まだ途中)朱塗りが鮮やかでした。
本堂のくすんだ佇まいとは対照的ですが、創建当時の本堂は
朱塗りで内部も極彩色だったそうです。いずれ復元されるかも。


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訪ねたのが2月14日だったから、木瓜の花と蝋梅。季節外れですね。

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南大門、西門もありますが、本堂正面に位置するこの東大門が
正門なんでしょうね。


ここも荒廃していたのを秀吉、秀頼が再建に尽力しました。
これが太閤椿かな・・・?

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護摩焚きの跡かな?

庶民からは「頭痛山 平癒寺」と言われていたようです。
今でも頭痛封じのお守りもありますが・・・
その訳は後白河上皇が酷い頭痛に悩まされていたところ、上皇の前世は
蓮花坊という修行僧で、その髑髏が熊野・岩田川に沈んでおり、髑髏を
貫いて柳が生え、風に揺られて柳が当たることが頭痛の原因だとの
お告げを受け、川底より引き揚げた髑髏を観音像の頭に収めて祀ると、
以後頭痛は消えたとか。柳は棟木に使われたとも言われています。

しかしこの逸話、江戸時代の浄瑠璃によって伝えられており、
真意のほどは・・・実際、観音像の頭に髑髏が収められている事実は
ありませんし、棟木に柳は使われておりません。
蓮華王院の名がこの逸話によるものだと言われたりしますが、そもそも
千手観音の別称は蓮華王ですし。(^_^ゞ
とはいえ、ここでは毎年成人式の日の「大的大会:通し矢」と同じ日に
「楊枝のお加持(やなぎのおかじ)」という頭痛平癒祈願の法要が
行なわれています。


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本堂正面の向拝、蟇股(かえるまた)の部分に彫刻があります。
彫刻は犀(さい)・獅子・麒麟の3種類。西本願寺唐門の彫刻に似た
雰囲気があります。これも極彩色だった名残りはあるのですが・・・

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〈麒麟〉             〈犀〉

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〈獅子〉


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鬼瓦も国宝に相応しい立派なものでした。
阿形と吽形が見られ、梵字も書かれています。


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三十三間堂、さすがに凄いお堂です。地上16m、奥行き22m、南北120m
の長大なお堂は、世界一長い木造建築だと言われています。

ご存じのように中はもっと凄いですが、撮影禁止なので・・・
ちょっと算数レベルの計算も交えて数字遊びを。(^_^ゞ

まずは「三十三」という数、これは観音菩薩の変化身三十三身に
もとづく数を表しています。この数にしたがって三十三間なんですね。
ここで言う「間(けん)」は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の
数を表す建築用語です。
柱間が33あるのは本堂の内陣で、建物外部から見る柱間は35あります。
そもそも1間は約1.82m、×33なら60mほどなので半分にしかなりません。
三十三間堂の柱間は2間だとも言えるのですが・・・ムリヤリ?

堂内中央に本尊千手観音坐像を安置。その左右には階段状の仏壇に
なっていて、各10段50列に1,000体の千手観音立像が並んでいます。
壮観、圧巻、おかんもビックリですね。しかも一体一体の表情がすべて
異なっている。体型も微妙にぽっちゃりだったり、痩せてたり・・・
1体見るのに30秒でも1000体見ていたら30000秒=500分、
8時間以上かかります。(^_^ゞ

千手観音さん、頭上に11の顔をつけ左右に20本づつ、両脇に40の手が
ついています。1本につき、それぞれ25の救いの働きがあるといわれる
ので、40×25=1000。つまり「千」の救いがあると考えられています。
千の手が千体、百万もの救いの手が・・・

ところで、千体、千体と言ってますが、千手観音立像は本尊の背後にも
1体あり、計1001体なんです。その1体だけ室町時代に作られたもので、
かつては各地に出張してご寄進を募るために用いられていそうで
「行像尊」の名前で呼ばれています。
これでご本尊も入れれば、1002体の千手観音像が置かれていることに。
ただし、5体は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されていますし、
年に10~20体は専門家による修理・清掃が施されます。その立ち位置
には「現在修復中」の看板が置かれています。
フルメンバー揃うことはまずありませんが、もし揃えば合掌印の2本
真手(しんしゅ)も含めて、42,084手と12,024の頭が見られる?

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現在の三十三間堂は、平清盛が後白河上皇のために建てましたが、
実は先代、平忠盛(清盛の父)も鳥羽上皇(後白河上皇の父)のために
同様な三十三間堂を造くっていました。お互い父の真似をした?
左京区岡崎にあったようですが、現存していません。
1185年、京都で起こった大地震によって崩壊してしまいました。
折しも平家一門が壇ノ浦で滅亡した直後のこと、なんとも歴史の
奇縁を感じるできごとです。

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この日本最長の軒下(トップ画)を使って行なわれたのが「通し矢」。
全長(小口から小口まで)121.7m、高さ4.5~5.3m、幅2.36m。
三十三間堂の西側軒下を南から北に矢を射通す競技です。いくつかの
種目があったようですがメインイベントは、夕刻に始め、翌日の同刻
まで24時間一昼夜1万本前後の矢を射続ける「大矢数」が有名です。
軒下だから、かなり強い弓で座ったままの姿勢で的をめがけて射る。
10,000本の矢を放つには、8.64秒に1本、それを24時間射続ける
ことになります。まさに“矢継ぎ早”・・・
ちなみに総矢数や通し矢(命中)は「矢数帳」に記載されています。
最高記録はと言うと、紀州藩士・和佐大八郎の総矢数13,053本、
通し矢8,133本。このとき大八郎は18歳、なんとも凄い!これって、
36400秒(24時間)÷13053本=約6.62秒。的中率は約62.3%。

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現在は「大的大会」という通し矢にちなんだ大会が毎年、成人式の
日に行なわれています。
新成人の晴れ着姿での競技は、正月ならではの華やかさで、
京都の風物詩のひとつです。
これは、お堂の西隣の広場で60m先の的をゆっくり狙います。(^_^ゞ


さて、写真が撮れるのはお堂の外観と周りだけ・・・ザンネンナコトニ!

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〈久勢稲荷大明神〉        〈宝篋印塔〉

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      〈太閤塀〉
安土・桃山時代、1588年頃築造。方広寺の遺構。
豊臣秀吉が方広寺大仏殿を創建した際、蓮華王院(三十三間堂)も
方広寺の境内に取り込まれたためその工事に伴って築造されたもの。
かつては西にもありましたが、現存する当時のものは南の塀のみ。

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〈歌碑・梁塵秘抄〉        〈百僧供養碑〉

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〈西門〉
内側から見た画像です。外側には「洛陽古跡 通し矢射場」の木札が
掲げられています。この門から外部への出入りはできません。
もともと秀吉が方広寺を造った際に建てられた西大門は、
東寺の南大門として移設され、現存しています。


修学旅行の定番スポットなんでしょうが、京都に住んでいると
逆に行く機会がなく、初めて訪ねましたが素晴らしいところですね。
ここもまた歴史の坩堝、ディープなドラマを感じられました。

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2016.2/14、三十三間堂(蓮華王院)にて。
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舌も抜かれそうな・・・ [京都うろうろ]

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家隆山光明遍照院石像寺(かりゅうざん こうみょうへんじょういん
しゃくぞうじ)…名が長ッ!
通称「釘抜地蔵」、くぎぬきさん。
ちょっと駈け足状態でしたが、初めて訪ねてみました。

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819年、弘法大師空海が開いたとされるお寺、石像寺(しゃくぞうじ)。
名前に“石像”とあるように、弘法大師が唐より持ち帰った石に、自ら
地蔵菩薩の尊像を彫り、人々を様々な苦しみから救うことを祈願した
のが始まりとされています。

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西陣・千本通上立売(かみたちうり)上ルにあるこじんまりした
お寺ですが、京都では知らない人は居ないのでは無いかと思える
ほど名前は知れ渡っています。

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人々の諸悪・諸苦・諸病を抜き取る「苦抜(くぬき)地蔵」と
言われていたのですが、「釘抜き地蔵」に変わったのには
こんなエピソードが・・・室町時代に両手の痛みに悩まされていた
商人が苦抜地蔵にすがり願掛けしたところ、夢の中に地蔵菩薩が現れ
「お前の前世が人を恨み、藁人形を作って、その両手に八寸の釘を
打ち込み、呪ったことが原因だ」とお告げになり、前世のしたこと
であり、真面目なお前に報いがあるのは可哀相だからと、両手に
刺さった釘を抜かれたのだとか。
夢から覚めると痛みは消えており、苦抜地蔵にお礼参りに行ったところ、
お地蔵さんの前に血の付いた2本の八寸釘が置かれていた・・・
と言うお話です。

そんなことで「釘抜地蔵」と呼ばれるようになったのですが、
中門の前に置かれた釘抜き、デカッ!
これを使えば、かなり重症の痛みも抜いてくれそうな・・・(^_^ゞ

      〈開山大師堂/観音堂〉
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〈絵馬堂?〉床几が置かれ、休憩所になっていました。

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八寸釘や釘抜きと釘がセットで括り付けてある板があちこちに見え
ますが、これは願い成就して苦が抜けた暁に、釘抜地蔵菩薩様に
御礼として奉納した絵馬なんです。


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〈本堂〉

本堂前にある巨大なブロンズの釘抜きモニュメントは、日本画家・
堂本印象氏がご自身の母親の満願成就のお礼に奉納されたものです。

この釘抜きなら舌でも抜けそうですね。嘘をついたら閻魔さまに
舌を抜かれる・・・子供の頃、そう言われたものです。
データー改ざん、デザイン盗作、経歴詐称・・・云々
今こそそんな 脅し 躾が必要なのでは?


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ご本尊は秘仏で地蔵盆の際しか御開帳されませんが、そのご本尊・
地蔵菩薩からは結縁紐(けちえんひも)が伸びており、紐の先には
左手に宝珠、右手に五鈷杵(ごこしょ)が結ばれています。
それを撫でるなり握るなりして願い事を伝えるのかな・・・

住職さんでしょうか、読経されていました。この住職さん、心の痛みを
抱えてお参りにこられる方の力になればと、臨床心理士の資格をとり、
「心の相談室」を開いてカウンセリングされています。

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本堂の軒下にも例の絵馬がずらりと・・・
このセット、ホームセンターでは置いてないだろうな。(^_^ゞ


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〈阿弥陀三尊像〉【重文】

本堂背後の小堂に安置された石造阿弥陀如来像、脇侍像に観音・勢至
菩薩像が立っています。鎌倉時代、元仁元年(1224)に彫り、翌年に
開眼供養したという銘がある貴重なものだとか。
堂内には石造弥勒仏立像もあり、これも重文。

      〈おさすり地蔵さま〉
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〈撫ぜ仏・賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)さま〉

どちらも病んでいる部位を撫でると除病の功徳があるといわれています。


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本堂の側面、裏手の壁は・・・!
千枚もの釘抜き絵馬が貼られています。これだけ御利益があったのか?

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ね、すごいやろ・・・(^_^ゞ


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〈開山大師堂/観音堂の中〉
弘法大師の後ろに、行基作という藤掛観音菩薩」が祀られている。
写真、真っ黒で分からへんけど・・・
ただ、寺院内の西陣織と思われる金襴がやたら目につきました。

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手水舎には深い井戸があり、つるべのバケツで水を汲むらしい。
ここには「弘法三井」と呼ばれる弘法大師が掘られた井戸が
あるのですが、それは境内の奥、墓地の中にあります。
加持水といわれるありがたい水が今も涌いているそうです。

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不動明王やら十一面観音、ここはいろいろ願掛けができそうですね。

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さすが庶民的なお地蔵さんがご本尊だけあって、信仰の場でもあり
地元の方にとっては憩いの場、コミュニティの役割も果たしている
そうです。毎月24日(地蔵尊の縁日)は「地蔵しるこの日」として
住職さんの法話のあと、「おしるこの唄」をみんなで歌うのだとか。
その後、おしるこのふるまいも頂けるようです。
私が訪ねたのも24日でしたが、気がつきませんでした・・・


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2016.01.24、釘抜地蔵にて。
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