桜の住み家 [京都うろうろ]
去年のNHK大河ドラマ「八重の桜」にも出てきた旧新島邸です。
御所の東側、寺町通の駐車場にクルマを停めると向い側に・・・
あれ?こんなとこにあったんや!新島襄・八重が住んでいた邸宅です。
よく通る道なのに、今まで気がついてませんでしたw(^_^ゞ
しかも一般公開してます。こりゃ入ってみないとね♪
原則、ネットで見学予約申込をするようですが、空きがあれば当日でも
見学できるとのこと。早速、受付に行って訊ねてみたらOKでした♪
そうそう、この特別公開は3月いっぱいで終わります。4月から9月まで
メンテナンスのため休館となります。(期間中も火曜日は休館)
その後は、従来の一般公開(3月~7月、9月~11月の水、土、日と春と秋の
京都御所一般公開日に合わせて一般公開)に戻ると思います。
新島旧邸は同志社新島会館の敷地内にあります。こちらで受付を済ませて
ルートに従って見学することになります。見学は無料ですが、
1口300円の東日本大震災復興協力金(募金)をお願いされます。
資料パネルなど一部撮影禁止ですが、邸内は撮影可なので・・・
「外観」南側。全景が撮れなかったw
竣工は1878(明治11)年。江戸幕府終焉から10年ほど。三方にバルコニーを
備えた、当時としてはかなりモダンな洋風の建物だったでしょうね。
家具や調度品とともに京都市指定文化財になっています。
同志社教員で医師・宣教師でもあった W.テーラーの助言をもとに、
新島自身が設計したといわれていますが、施工したのは京都の大工職人。
スタイルは洋風ですが和風在来工法である真壁造、寄せ棟の木造2階建です。
「キッチン」
当時の台所は土間が普通だったろうに、フローリングにシステムキッチン!
井戸も部屋の中にあります。この台所は画期的だったでしょうね。
応接間に置かれた八重愛用のオルガン。
「ダイニング」から「応接間」を見る。間仕切りは襖、和洋折衷ですね。
「書斎」
新島襄が使った机も当時のまま、壁一面の書棚の中には洋書が並んでます。
よく見るとダミーの写真プリントでした。実物は資料センターに保管。
「暖炉」
セントラルヒーティングになっていて、1階の他の部屋や2階にも
温風を送るようになっています。
「応接間」
18畳ほどの洋間で、椅子、テーブルも当時のまま置かれています。
「茶室 寂中庵」
「2階への階段」
襄の没後、八重は1階洋間を和室に改造し「寂中庵」と称した茶室を造ります。
新島襄は46歳で亡くなりますが、八重は86歳の生涯をこの家で全うします。
「2階へは立入り禁止」でした。
2階は居間と寝室になっています。八重のベッドも置かれているはず。ただ
板張りの洋間を畳敷きに変え、ベッドも脚を取ったものを使ったようです。
階段は狭くて急勾配、町家そのもの。収納が付いた箱階段になっています。
こういうところも洋館建てのようで洋館ではない、和洋折衷の建築ですね。
「トイレ」と「バスルーム」
厠(かわや)じゃなく、トイレと呼ぶべきでしょうね。板張りの洋式トイレは
日本初と言われています。バスタブはさすがに風呂桶?(^_^ゞ
庭から見た「書斎」
この部屋には同志社の学生も自由に出入りすることができ、図書室のように
使用していたといわれています。
二階建ての洋館、本宅の隣りには和風平屋の附属屋が建てられています。
新島襄が呼び寄せた両親が住んでいたということです。
二世帯住宅のはしりかな・・・
東日本大震災の復興支援を念頭に置いた大河ドラマ『八重の桜』を観て、
初めて知った東北・福島に根づく不屈のプライド、近代日本をきり拓いた
人物達。今になって良いドラマだったなと感じています。
新島襄は言うに及ばず、その襄がハンサムウーマンと称した八重さん。
その兄、山本覚馬は同志社創設の大きな協力者であり、「同志社」と命名
したのも彼だとされています。
建物も貴重ですが、これらの人物の半生を知ることも大切ですね。
ちなみに、二人の暮らしは明治23(1890)年、新島襄の永眠により終わりを
告げますが、28歳にして京都に根を下ろした八重のその後は、篤志看護婦として
日清・日露の両戦争の負傷者の看護にあたるなど、ボランティア活動と
チャリティ活動に生涯をささげ、この家で86歳の生涯を終えました。
左京区鹿ケ谷若王子山町の同志社墓地には新島襄・八重の墓が。
その側には山本覚馬の墓もあります。
2014.3/8、新島旧邸にて。
御所の東側、寺町通の駐車場にクルマを停めると向い側に・・・
あれ?こんなとこにあったんや!新島襄・八重が住んでいた邸宅です。
よく通る道なのに、今まで気がついてませんでしたw(^_^ゞ
しかも一般公開してます。こりゃ入ってみないとね♪
原則、ネットで見学予約申込をするようですが、空きがあれば当日でも
見学できるとのこと。早速、受付に行って訊ねてみたらOKでした♪
そうそう、この特別公開は3月いっぱいで終わります。4月から9月まで
メンテナンスのため休館となります。(期間中も火曜日は休館)
その後は、従来の一般公開(3月~7月、9月~11月の水、土、日と春と秋の
京都御所一般公開日に合わせて一般公開)に戻ると思います。
新島旧邸は同志社新島会館の敷地内にあります。こちらで受付を済ませて
ルートに従って見学することになります。見学は無料ですが、
1口300円の東日本大震災復興協力金(募金)をお願いされます。
資料パネルなど一部撮影禁止ですが、邸内は撮影可なので・・・
「外観」南側。全景が撮れなかったw
竣工は1878(明治11)年。江戸幕府終焉から10年ほど。三方にバルコニーを
備えた、当時としてはかなりモダンな洋風の建物だったでしょうね。
家具や調度品とともに京都市指定文化財になっています。
同志社教員で医師・宣教師でもあった W.テーラーの助言をもとに、
新島自身が設計したといわれていますが、施工したのは京都の大工職人。
スタイルは洋風ですが和風在来工法である真壁造、寄せ棟の木造2階建です。
「キッチン」
当時の台所は土間が普通だったろうに、フローリングにシステムキッチン!
井戸も部屋の中にあります。この台所は画期的だったでしょうね。
応接間に置かれた八重愛用のオルガン。
「ダイニング」から「応接間」を見る。間仕切りは襖、和洋折衷ですね。
「書斎」
新島襄が使った机も当時のまま、壁一面の書棚の中には洋書が並んでます。
よく見るとダミーの写真プリントでした。実物は資料センターに保管。
「暖炉」
セントラルヒーティングになっていて、1階の他の部屋や2階にも
温風を送るようになっています。
「応接間」
18畳ほどの洋間で、椅子、テーブルも当時のまま置かれています。
「茶室 寂中庵」
「2階への階段」
襄の没後、八重は1階洋間を和室に改造し「寂中庵」と称した茶室を造ります。
新島襄は46歳で亡くなりますが、八重は86歳の生涯をこの家で全うします。
「2階へは立入り禁止」でした。
2階は居間と寝室になっています。八重のベッドも置かれているはず。ただ
板張りの洋間を畳敷きに変え、ベッドも脚を取ったものを使ったようです。
階段は狭くて急勾配、町家そのもの。収納が付いた箱階段になっています。
こういうところも洋館建てのようで洋館ではない、和洋折衷の建築ですね。
「トイレ」と「バスルーム」
厠(かわや)じゃなく、トイレと呼ぶべきでしょうね。板張りの洋式トイレは
日本初と言われています。バスタブはさすがに風呂桶?(^_^ゞ
庭から見た「書斎」
この部屋には同志社の学生も自由に出入りすることができ、図書室のように
使用していたといわれています。
二階建ての洋館、本宅の隣りには和風平屋の附属屋が建てられています。
新島襄が呼び寄せた両親が住んでいたということです。
二世帯住宅のはしりかな・・・
東日本大震災の復興支援を念頭に置いた大河ドラマ『八重の桜』を観て、
初めて知った東北・福島に根づく不屈のプライド、近代日本をきり拓いた
人物達。今になって良いドラマだったなと感じています。
新島襄は言うに及ばず、その襄がハンサムウーマンと称した八重さん。
その兄、山本覚馬は同志社創設の大きな協力者であり、「同志社」と命名
したのも彼だとされています。
建物も貴重ですが、これらの人物の半生を知ることも大切ですね。
ちなみに、二人の暮らしは明治23(1890)年、新島襄の永眠により終わりを
告げますが、28歳にして京都に根を下ろした八重のその後は、篤志看護婦として
日清・日露の両戦争の負傷者の看護にあたるなど、ボランティア活動と
チャリティ活動に生涯をささげ、この家で86歳の生涯を終えました。
左京区鹿ケ谷若王子山町の同志社墓地には新島襄・八重の墓が。
その側には山本覚馬の墓もあります。
2014.3/8、新島旧邸にて。
素晴らしい写真と共に語られた戊辰戦争後の物語、堪能させていただきました。今回新島邸の探訪もラッキーでしたね。本当に現在でも住んでみたくなるような斬新な要素がたくさん盛り込まれていますね。何でもすぐに壊してしまう日本で、よくもここまで完璧に手入れしながら残されてきたものですね。
by sig (2014-03-20 00:58)
おはようございます
見ごたえがありそうですね。
行ってみたくなりました(^_^)ニコニコ
by すー (2014-03-20 04:35)
「八重の桜」を思い起こしました、京都ウロウロ散歩に行きたくなりました(*^^)v
by ヒロシ (2014-03-20 06:12)
八重の桜を通して、幕末から明治維新の違う面を知ることができました。
新島襄旧宅も訪れたい京都名所のひとつになっています。
by hrd (2014-03-20 07:27)
★sigさん、ありがとうございます。
こんな誌面では語りきれませんね、新島邸もあのドラマ見るまでは無視してましたし。
会津戦争も白虎隊くらいしか知りませんでした・・・(^_^ゞ
ここ、ある意味、同志社の聖地なんでしょうね。
★すーさん、こんにちは。
建物としても興味深いところでした。
文明開化の時代の生活感も残されていますし。('∇^d)
★ヒロシさん、ありがとうございます。
ご覧になってましたか、
私もドラマのシーンを思い出してましたよ。(^_-)v
★hrdさん、ありがとうございます。
八重の桜を見て、山本覚馬って人物を知ってから、
京都のあちこちにその足跡が残されていることに気がつくようになりました。
学校では教えてくれないものね・・・(^_^ゞ
by 路渡カッパ (2014-03-20 12:49)
私も昨年は、NHK大河ドラマ「八重の桜」を見ていました。この旧新島邸も昨年は賑わったでしょうね。機会あれば訪問したいと思いました。
by たいちさん (2014-03-20 18:11)
この時間は、チャンネル権が無いので見てませんが、
旧邸が近くにあるのは、いいですね。。
学校の勉強で地元の歴史も教えて欲しいですね。
そうすれば、もっと地元愛が深まりますね。
by なんだかなぁ〜!! 横 濱男 (2014-03-20 21:41)
★たいちさん、ありがとうございます。
ドラマのシーンが甦りましたよ。もちろん、ここでもロケが行われたようです。
御所、城南宮とそのつもりはなく、八重の桜の舞台を訪れたことになります。(^_^ゞ
★横 濱男さん、ありがとうございます。
あれ?裏番組って何かありましたっけ(゚ε゜;)
京都は大河ドラマの舞台になることが多いです。あたり前なんですが・・・
荒廃、復興の歴史を繰り返してきた街ですから、ディープな歴史を。
そしてその足跡があちこちに残ってる面白い街ですね。
by 路渡カッパ (2014-03-20 21:58)
長崎のグラバー園で数軒の洋館を見ましたが、こちらの洋館は日本人が使い易いように出来ているのですね(^^)
by 風来鶏 (2014-03-21 18:56)
★風来鶏さん、ありがとうございます。
神戸や長崎の洋館は、外国人が住むために造られたものでしょうが、
新島襄はともかく、八重さんはベタベタの日本人ですからね。
これでも思いっ切りハイカラだったのでしょうね・・・(^_^ゞ
by 路渡カッパ (2014-03-21 22:02)
「桜の住み家」ってなんだろう
気になるタイトルだな~って思ってたら、八重さんでしたか
和洋折衷のステキなオタクなのに・・
他のお部屋と比べるとバスルームがいじょうに質素~
by はなだ雲 (2014-03-22 15:28)
★はなだ雲さん、ありがとうございます。
書斎やダイニングのシーンはありましたよね。
ただ、バスルーム、もちろんトイレもここへ来て初めて見るものでしたが・・・
ま、これがリアルってもんでしょうかね。(^_^ゞ
by 路渡カッパ (2014-03-22 19:24)