近江風土記の丘の明治。
「風土記の丘」?あまり聞きなれないのですが・・・
1966年から文化庁が実施している広域的史跡保存整備事業。
遺跡及び歴史資料の保存及び活用を目的として設置された史跡等の遺跡を中心とする
野外博物館・公園であるとともに、収蔵・展示するための資料館の設置等を行い、
史跡整備と資料館の二本立てで遺跡と遺物をともに公開しようとするものである。
・・・なんだそうで、全国に16ヶ所(2007年現在)あるとか。
今回行った「文芸の郷」は、歴史公園「近江風土記の丘」の中心的な施設という
位置づけのようです。
「安土城考古博物館」を中心に、2000年前の農耕集落跡「大中の湖南遺跡」
「安土瓢箪山古墳」「観音寺城跡」「安土城跡」の史跡で構成されている。
ま、そんなことはどうでもいいので、気になったところをチラッと散策・・・
『旧柳原学校舎(きゅうりゅうげんがっこうこうしゃ)』
この建物は、明治9(1876)年に高島郡新儀村(現高島市新旭町)の
初等科小学校として建てられ、この地方では他にさきがけ洋風を取り入れた
学校建築物であるとされ、現存する県下の学校建築としては最も古いものです。
明治9年といえば、日本最後の内戦、西南戦争が起きる1年前ですもんね。
30年間、学校として使われた後、地区の区長事務所として使用されていました。
昭和34(1959)年に擬洋風建築としての価値が認めら県文化財の指定を受け、
昭和45(1970)年に近江風土記の丘の建設に伴い現在地に移築されたものです。
文化財に指定されなければ残らなかったといわれるほど修理前は老朽破損が
酷いものだったようです。
1階が教室、2階は事務室に使われ、特徴的な3階部分の塔は「太鼓楼」。
チャイム代わりに太鼓を打ち鳴らしていたようです。(^_^ゞ
内部も公開されているのですが、16時まで。私が行った時にはもう閉まっていました。
2階は外観から想像できないような畳敷きの和室、1階は机に椅子で、当時の
子供たちにとってはモダンでハイカラな環境だったようです。
もともと太田神社境内に建てられた小学校で、神社の社務所と合体したような
部分もあり、とても奇異で希少な建築物です。
建てたのは地元の大工の棟梁、清水吉平だということで、京都などに出向き
洋風建築を見聞き、勉強されたのでしょうね。
瓦屋根に漆喰の外壁ですが、入口はアーチ型に、西洋の時計台に見立てた太鼓楼。
鎧戸のような窓やベランダ回廊、淡いブルーの配色も当時の棟梁が精いっぱい
表現した“文明開化”だったのかも知れませんね。
これは明治以前のものですが・・・
道標には「柳緑花紅 法名未徹」「みきハ京ミち」「ひたりハふしミみち」と
3面に文字が刻まれており、もとは東海道と伏見街道の分岐点(大津市追分町)に
あったものだそうです。
「柳緑花紅」とは春の景色の良いさまを形容している漢詩だとか。
大津米屋中が建てた「逢坂常夜燈」、東国から東海道で上洛する際、
最後の関所があるのが逢坂山。山城・近江国境でもあります。
これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)
・・・多くの人の出逢いと別れの分岐点になっていたようですね。
夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ(清少納言)
・・・逢坂の関所がかなり厳しかったことを喩えにしているようです。
百人一首にはこの二首の他、三条右大臣が詠んだ
名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
と言うのもあります。このように百人一首に三首も出てくるほど昔の人にとっては
京都の出入り口として、避けては通れない要所だったのでしょうね。
〈Google Mapより〉
国道1号線にある関所跡、今は石碑だけですが
以前はここに大津署の逢坂山検問所があり、よく検問をしてましたよ。(^_^ゞ
この常夜燈は「外宮長虹籠」。参宮常夜燈としてはかなり古いものだそうです。
右の写真は、東海道に設置されていた「車石」です。これは京都周辺の街道などに
敷設されたもので、荷車がスムーズに通れるように二条の凹みに車輪を嵌める
ようになっています。特にぬかるんだ峠道などでは効果絶大だったと思われます。
さてもう1軒、明治の遺構に戻ります。
なんともお洒落で瀟洒な洋館建て♪ これ、派出所なんです。
「旧安土巡査駐在所」
明治18(1885)年に、常楽寺交番所として安土駅に近い十字路の角地に建って
いたのを移設したものだそうです。昭和40(1965)年まで使われていたとか。
これも旧柳原学校舎と同じく、地元の大工が造ったものだとか、平成10年には
「国土の歴史的景観に寄与されているもの」として登録有形文化財になりました。
よい仕事をしたものですね・・・(^_^ゞ
建物は木造で五角形平面の総2階建て部分と下屋部分からなり、外観は柱を塗り込む
大壁造の白漆喰塗で、屋根は桟瓦葺。交互に化粧積みされた隅の切石が印象的です。
玄関は洋風の扉にアーチ型の庇を設け、上部はペディメント風の三角形の切妻。
中央に官憲の紋章?1階、2階上下に揃えて配置された両開きのガラス窓など
随所に当時流行した洋風建築の意匠が見られます。
ここも16時までなら内部も公開されています。旧柳原学校舎もそうですが、
畳敷きの部屋、床の間まであるようです。外観は西洋文化を取り入れつつも
まだ生活習慣までは変えられなかったのでしょうね。
それと、旧柳原学校舎と旧安土巡査駐在所、共通しているのが住民の寄付によって
建てられたということ。この時代の住民、国民の気概を感じます。
2軒とも小さいながら洋風を模した公共建築で、内部までほぼ完全に当時の姿が
復元保存されている遺構は非常に少なく、近代化の歴史を伝える建造物としても、
人々の歩み、時代を検証するに貴重な資料だと思われます。
また機会があれば内部までゆっくり見てみたいものですが、何せこの日は
暑さと観音正寺の石段で体力消耗、ふらふらのヘトヘト・・・
散策を打ち切って『安土城考古博物館』へ戻ります。
この施設「安土城・・・」と名前にありますが、
安土城の展示はあまり期待出来ないようです。ほとんどが弥生時代や古墳時代の
古代遺跡研究の展示だとか・・・
私らが行った時はもう閉館していましたが、館内の食事コーナーは営業中だったので。
ここのメニューにも「尾張英傑カレー」だとか「信長珈琲セット・抹茶セット」
なんてのがありました。
信長公は下戸で甘党だったとかで、珈琲や抹茶のセットには、白玉団子にあずき、
黒豆餅に黒蜜ときな粉、金平糖が付いているようです。
とにかく暑かったので、私らはこれを・・・
パイプオルガンを備えたバロック調の音楽ホールである「文芸セミナリヨ」(上)
総合体育館、多目的ホールとしてスポーツや文化交流の場「あづちマリエート」(下)
「セミナリヨ」と言うのは、イエズス会によって日本に設置された初等教育機関
のことで、信長の保護のもと安土に作られ、ラテン語や文化を伝えたとされます。
ちなみに同じ時期、長崎にも作られています。
ここのセミナリヨは本能寺の変後、安土城炎上の際、共に焼失したようです。
やっとこの施設群の意義が少しは分ったような気がしますが・・・
2013.8/15、西の湖の夕景。
1966年から文化庁が実施している広域的史跡保存整備事業。
遺跡及び歴史資料の保存及び活用を目的として設置された史跡等の遺跡を中心とする
野外博物館・公園であるとともに、収蔵・展示するための資料館の設置等を行い、
史跡整備と資料館の二本立てで遺跡と遺物をともに公開しようとするものである。
・・・なんだそうで、全国に16ヶ所(2007年現在)あるとか。
今回行った「文芸の郷」は、歴史公園「近江風土記の丘」の中心的な施設という
位置づけのようです。
「安土城考古博物館」を中心に、2000年前の農耕集落跡「大中の湖南遺跡」
「安土瓢箪山古墳」「観音寺城跡」「安土城跡」の史跡で構成されている。
ま、そんなことはどうでもいいので、気になったところをチラッと散策・・・
『旧柳原学校舎(きゅうりゅうげんがっこうこうしゃ)』
この建物は、明治9(1876)年に高島郡新儀村(現高島市新旭町)の
初等科小学校として建てられ、この地方では他にさきがけ洋風を取り入れた
学校建築物であるとされ、現存する県下の学校建築としては最も古いものです。
明治9年といえば、日本最後の内戦、西南戦争が起きる1年前ですもんね。
30年間、学校として使われた後、地区の区長事務所として使用されていました。
昭和34(1959)年に擬洋風建築としての価値が認めら県文化財の指定を受け、
昭和45(1970)年に近江風土記の丘の建設に伴い現在地に移築されたものです。
文化財に指定されなければ残らなかったといわれるほど修理前は老朽破損が
酷いものだったようです。
1階が教室、2階は事務室に使われ、特徴的な3階部分の塔は「太鼓楼」。
チャイム代わりに太鼓を打ち鳴らしていたようです。(^_^ゞ
内部も公開されているのですが、16時まで。私が行った時にはもう閉まっていました。
2階は外観から想像できないような畳敷きの和室、1階は机に椅子で、当時の
子供たちにとってはモダンでハイカラな環境だったようです。
もともと太田神社境内に建てられた小学校で、神社の社務所と合体したような
部分もあり、とても奇異で希少な建築物です。
建てたのは地元の大工の棟梁、清水吉平だということで、京都などに出向き
洋風建築を見聞き、勉強されたのでしょうね。
瓦屋根に漆喰の外壁ですが、入口はアーチ型に、西洋の時計台に見立てた太鼓楼。
鎧戸のような窓やベランダ回廊、淡いブルーの配色も当時の棟梁が精いっぱい
表現した“文明開化”だったのかも知れませんね。
これは明治以前のものですが・・・
道標には「柳緑花紅 法名未徹」「みきハ京ミち」「ひたりハふしミみち」と
3面に文字が刻まれており、もとは東海道と伏見街道の分岐点(大津市追分町)に
あったものだそうです。
「柳緑花紅」とは春の景色の良いさまを形容している漢詩だとか。
大津米屋中が建てた「逢坂常夜燈」、東国から東海道で上洛する際、
最後の関所があるのが逢坂山。山城・近江国境でもあります。
これやこの 行くも帰るも分かれつつ 知るも知らぬも逢坂の関(蝉丸)
・・・多くの人の出逢いと別れの分岐点になっていたようですね。
夜をこめて 鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ(清少納言)
・・・逢坂の関所がかなり厳しかったことを喩えにしているようです。
百人一首にはこの二首の他、三条右大臣が詠んだ
名にし負はば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
と言うのもあります。このように百人一首に三首も出てくるほど昔の人にとっては
京都の出入り口として、避けては通れない要所だったのでしょうね。
〈Google Mapより〉
国道1号線にある関所跡、今は石碑だけですが
以前はここに大津署の逢坂山検問所があり、よく検問をしてましたよ。(^_^ゞ
この常夜燈は「外宮長虹籠」。参宮常夜燈としてはかなり古いものだそうです。
右の写真は、東海道に設置されていた「車石」です。これは京都周辺の街道などに
敷設されたもので、荷車がスムーズに通れるように二条の凹みに車輪を嵌める
ようになっています。特にぬかるんだ峠道などでは効果絶大だったと思われます。
さてもう1軒、明治の遺構に戻ります。
なんともお洒落で瀟洒な洋館建て♪ これ、派出所なんです。
「旧安土巡査駐在所」
明治18(1885)年に、常楽寺交番所として安土駅に近い十字路の角地に建って
いたのを移設したものだそうです。昭和40(1965)年まで使われていたとか。
これも旧柳原学校舎と同じく、地元の大工が造ったものだとか、平成10年には
「国土の歴史的景観に寄与されているもの」として登録有形文化財になりました。
よい仕事をしたものですね・・・(^_^ゞ
建物は木造で五角形平面の総2階建て部分と下屋部分からなり、外観は柱を塗り込む
大壁造の白漆喰塗で、屋根は桟瓦葺。交互に化粧積みされた隅の切石が印象的です。
玄関は洋風の扉にアーチ型の庇を設け、上部はペディメント風の三角形の切妻。
中央に官憲の紋章?1階、2階上下に揃えて配置された両開きのガラス窓など
随所に当時流行した洋風建築の意匠が見られます。
ここも16時までなら内部も公開されています。旧柳原学校舎もそうですが、
畳敷きの部屋、床の間まであるようです。外観は西洋文化を取り入れつつも
まだ生活習慣までは変えられなかったのでしょうね。
それと、旧柳原学校舎と旧安土巡査駐在所、共通しているのが住民の寄付によって
建てられたということ。この時代の住民、国民の気概を感じます。
2軒とも小さいながら洋風を模した公共建築で、内部までほぼ完全に当時の姿が
復元保存されている遺構は非常に少なく、近代化の歴史を伝える建造物としても、
人々の歩み、時代を検証するに貴重な資料だと思われます。
また機会があれば内部までゆっくり見てみたいものですが、何せこの日は
暑さと観音正寺の石段で体力消耗、ふらふらのヘトヘト・・・
散策を打ち切って『安土城考古博物館』へ戻ります。
この施設「安土城・・・」と名前にありますが、
安土城の展示はあまり期待出来ないようです。ほとんどが弥生時代や古墳時代の
古代遺跡研究の展示だとか・・・
私らが行った時はもう閉館していましたが、館内の食事コーナーは営業中だったので。
ここのメニューにも「尾張英傑カレー」だとか「信長珈琲セット・抹茶セット」
なんてのがありました。
信長公は下戸で甘党だったとかで、珈琲や抹茶のセットには、白玉団子にあずき、
黒豆餅に黒蜜ときな粉、金平糖が付いているようです。
とにかく暑かったので、私らはこれを・・・
パイプオルガンを備えたバロック調の音楽ホールである「文芸セミナリヨ」(上)
総合体育館、多目的ホールとしてスポーツや文化交流の場「あづちマリエート」(下)
「セミナリヨ」と言うのは、イエズス会によって日本に設置された初等教育機関
のことで、信長の保護のもと安土に作られ、ラテン語や文化を伝えたとされます。
ちなみに同じ時期、長崎にも作られています。
ここのセミナリヨは本能寺の変後、安土城炎上の際、共に焼失したようです。
やっとこの施設群の意義が少しは分ったような気がしますが・・・
2013.8/15、西の湖の夕景。
カッパのロードスター
大津署も関所跡で検問するなら、
チョンマゲと十手で、やって欲しいですね。(^0^)
by なんだかなぁ〜!! 横 濱男 (2013-09-15 19:01)
「旧柳原学校舎」・・・磐田市にある「旧見付学校」も同じような造りの建物だったとおもいます^^
暑い日は、やはり「カキ氷」が一番ですね!!
by 風来鶏 (2013-09-15 20:13)
こんばんは。
同じような時期に滋賀県でしたか。
私は喪服でした。
あの頃は暑かったですね。
いまもまだ蒸し暑いけど。
明治の人の気概を感じますね。
いまは、そういう町衆の心意気はきわめて少なくなりましたね。
by 京男 (2013-09-15 20:18)
★横 濱男さん、ありがとうございます。
そうそう、検問所の余興、おもてなしとしてそのくらいの演出があってもね♪
そしたらこちらも免許証じゃなく、通行手形でも見せますか・・・(^_^ゞ
★風来鶏さん、ありがとうございます。
旧見付学校、日本最古のようですね。コチラのはその1年後、同じような造りですが磐田市の方が随分立派です。
ちょうど1ヶ月前、あの頃はかなり暑い日が続いてましたから、信長セットよりかき氷でしたよ。
★京男さん、こんばんは。
喪服は暑かったでしょうね!かき氷も食べられなかっただろうし・・・
文明開化のパワーは凄かったのでしょうね。今は国民が夢を持てないのかも知れない。
何だか寂しい気もします。
by 路渡カッパ (2013-09-15 23:36)
安土城考古博物館には行きましたが、他の場所は行ってませんので、機会あれば行きたいですね。
by たいちさん (2013-09-15 23:56)
★たいちさん、ありがとうございます。
私は安土城跡へ登りたいと思ってます。
その時は、小学校・駐在所の内部も見てみたいと・・・(^_-)
by 路渡カッパ (2013-09-16 00:08)
去年だったかな? 安宅船の復元模型を見に行ったのは・・・
京都・桂川周辺の台風被害がTV報道されていましたが
山科周辺は大丈夫でしたか? 因みに神戸は被害はなく風雨だけでした
by ヒロシ (2013-09-16 10:12)
★ヒロシさん、ありがとうございます。
久しぶりに台風らしい風雨を感じましたが、被害は無かったです。
山科は地下鉄の駅が灌水したとかで電車が止まっているようですが・・・
嵐山周辺の状況には驚きました。直撃されたわけでも無いのにこの被害、これから直撃される地域が心配ですね。
by 路渡カッパ (2013-09-16 10:57)
こんにちは。明治初期の和洋折衷の建物の特徴がよく出ていますね。
明治の空気を知らなくても、どこか懐かしさを覚えますね。
それはともかく、桂川の洪水、ビックリです。カッパさんのところは・・・と書きかけて上のコメントに目が行き、大丈夫だった、とわかりました。よかったですね。午後はこちらの番のようです。現在はたまに突風。嵐の前の静けさでしょうか。
by sig (2013-09-16 11:42)
★sigさん、ありがとうございます。
明治の文明開化、こんな地方にまでもう押し寄せていたのですね。小学校が建ったのはまだ西南の役以前とは驚きです。
ご心配をかけて、かたじけない。(^_^ゞ
京都、桂川の被害は酷いようですね。観光地だけに人的被害が無かったのは不幸中の幸いですが。
私の住んでいるところでは、未だに電車が不通のようですが、それ以外は何事も無かったようです。
今は台風一過、お日さまも出て爽やかな良いお天気になっています。
これから関東、東北の方は直撃。充分ご用心くださいね。
by 路渡カッパ (2013-09-16 14:29)
さっきのコメントを入れた時点で、すでに台風は過ぎていたらしく、今は風も全く吹かなくなりました。空には暗雲が漂っていますが、西の空は明るくなっています。もう大丈夫です。ありがとうございました。
by sig (2013-09-16 15:30)
歴史公園「近江風土記の丘」なんて知らなかったなあ。
お恥ずかしいことです。
カッパさんのおかげで視野が開けました。
ありがとう!
by kazenotomo (2013-09-16 21:34)
★sigさん、ありがとうございます。
取り合えず何事も無くて良かった♪
今回は意外と関西の方が被害が大きかったのかな?
夕方、車で出る用事があったのですが、京都は交通マヒを起こしてましたよ。
★kazenotomoさん、ありがとうございます。
風土記の丘、私も知りませんでした。文化庁がらみでそんなものがあるとは・・・(^_^ゞ
全国で16ヶ所、ここはまだ新しいようです。
by 路渡カッパ (2013-09-17 00:28)
旧字体の「学校」がたまらないですね^^。
学校も駐在所も明治初期の頃の建造物にしてはほんと綺麗です。
建てた大工さんもハイカラで腕がいいです!(^^)!。
by ANIKI (2013-09-17 07:45)
★ANIKIさん、ありがとうございます。
学校制度も整ってきて、学校へ行くのが嬉しくて仕方なかったでしょうね。
親たちも熱心だったようで、寄付で学校を建てた時代なんですね。
大工さん、後世に残る良い仕事をしたものです♪(^_-)v
by 路渡カッパ (2013-09-17 09:04)