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赤レンガにサクラ色。 [レトロ建築]

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陸自宇治駐屯地の建物は、明治・大正・昭和戦前のものが4割以上
だそうです。何せ日清戦争を契機にできた所ですからね。
中でも煉瓦造りの建造物は25棟も遺されているとか。

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煉瓦マニアには堪らない。レンゲ畑ならず、レンガ畑?(^_^ゞ
ただ、一般開放されるのは年に3回だけ。
それも建物見学のためではないので、近寄れるのは一部だけでした。

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同じような建物が多いので、マニアになりきれない私にはよく分からない
のですが・・・ざっと、
補給部:需品倉庫、通信電子倉庫、整備部:木工所、器材工場、
キャンバス工場、メッキ工場、総務部:外来宿舎、授講室、教場などなど
の煉瓦造りの建物が並んでいます。


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立ち入り禁止区域ばかりなので、全部は見られません・・・

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機能重視の建物でしょうが、アーチ窓に瓦屋根、なんかイイ感じですね♪

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〈補給部回収課及び保管課及び管理課〉

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真っ赤なドラム缶の消火用水も雰囲気です。

〈補給部回収課及び保管課及び管理課〉
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授講室、教場かな・・・

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〈図書室〉


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明治から平成まで、現役で使われ続けているというのが凄いですね。
煉瓦の積み方はみんな、イギリス積みかな。


さて、駐屯地のシンボル。貴重な煉瓦建造物といえば・・・

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やっぱりコレかな、今は展望塔として活用されています。

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この展望塔は、もともと明治28年(1895年)の日清戦争の時代に
「陸軍砲兵工廠宇治火薬製造所」の水槽塔として建てられたものです。
大戦後は宇治市の給水施設として使用されていましたが、水槽部分の
老朽化に伴いタンク部分を撤去、平成6年に展望部分を設置して
現在の26mの高さの建物になっています。

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一般公開されるのは春の桜まつりと秋の創立記念日だけだそうです。

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中は随分補強されているようでした。壁沿いの階段を登って行くと
最上階の展望室に到達します。
外から見ると4階建に見えますが、階段フロアは6階分あったかな。
だから窓と階段フロアが完全に一致してません・・・

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最上階、展望室から写真を撮りたいところですが、撮影は禁止。
やはりな、軍事機密か何かかな・・・と思ったら
周辺住民のプライバシーを守るためってことでした。それも納得。

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この塔の前には枝垂れ桜の大木があるのですが、
残念!まだ今年は咲いていませんでした。検索すると見事に満開の
年もあるのですがね。


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塔の中にこんな貼り紙が「刻印のある古~い耐火レンガ、どこに
あるか探してね」・・・

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塔の廻りを探しまわりましたが・・・あらへんやん!
門番?の自衛官に「教えて、何処にあるのん」って聞いても
笑って、探してみて下さいって言うばかり・・・(⌒-⌒)ニコニコ
写真をよく見ると床か地面ですね、塔に無ければアソコかな?って
ここへ来る前に撮影した場所に戻ってみて・・・

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ありやしたぁ~!発見~♪

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上の写真は菱形にSSの刻印かな、『品川白煉瓦株式会社』の
刻印のようです。

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これらは保存状態の良い、はっきりした刻印が残っていますね。
右の「BIZEN-□-INBE」は「備前-□-伊部」?
備前市伊部(いんべ)は、耐火レンガ発祥の地であり、現在も
耐火レンガの町として知られています。

左は「ACID PROOF KIOTO TAKAYAMA KOZAN」の刻印ですね。
今も株式会社高山耕山という会社がありますが、
この会社の沿革では、
明治5年・京都清水焼の窯元である高山源兵衛(耕山と号す)は、
耐酸セッキ煉瓦及び磁器煉瓦を日本で初めて製造し、造幣局の
前身である大蔵省大阪精錬所に納入する。
とあります。
ACID PROOF=耐酸・レンガの生みの親だったのですね。

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他も探したのですが、汚れていてこれくらいしか見つかりません。
左は桜の刻印ですね。真ん中のは「×」でしょうか、だとしたら
「岸和田煉瓦」が明治26年~大正8年までに使用していた刻印。
右のはちょっと分かりません。

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煉瓦刻印探しは夢中になってしまいますね。ここだけでもまだまだ
あったようですが、見つけることはできませんでした。


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2016.4/2、陸自宇治駐屯地にて。
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土木遺産隧道三昧、その3 [レトロ建築]

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中途半端で小刻みな記事が続きましたが、いよいよ土木遺産ランクAの
『逢坂山隧道東口』(鉄道記念物)です。

京都から国道1号線、逢坂山を越えて大津へ降りて行くと
左R161(敦賀・高島)、右R1(四日市・草津)の標識が見え、
その分岐点、R161側にあります。

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旧逢坂山トンネルは、明治13(1880)年完成。大正10(1921)年、新逢坂山
トンネルができ、現在の路線になるまで使われていたものです。
現存する最古の鉄道トンネルで、日本人技術者だけで初めて造った
トンネルでもあります。全長664.8mのレンガ積トンネル、当時はノミや
ツルハシでの手掘りで約1年8ヶ月で竣工したと書かれていますね。


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ポータル(坑口)は重厚な石積み、内部はレンガ積みです。
のちに複線化され、この右側に上り線用のトンネルが開通し、
こちらは下り線として使われました。
ここから入り、抜ければ京都だったのですね・・・

鉄道記念物としても貴重ですが、現在世界一とも言われている日本の
トンネル掘削技術、その最初の一歩はここからってことなんだね。

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ん! 霜?塩を噴いてる?何だろうなこの結晶は・・・

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使われていたのは40年間ほどですが、蒸気機関車の吐く煙、煤の跡かな
黒く残っていますね。特に京都~大津間には逢坂山峠越えの急勾配、
山科~大谷間5キロに及ぶ25パーミル(蒸気機関車の登坂能力のほぼ
限界とされている)を走るため、勾配区間用として輸入された
Cタンク1800型という車両が使われていたそうです。


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つくづく明治のマンパワーは凄いですね、ちょんまげの時代から
わずか数十年で近代国家に。
このトンネルが開通した時の歓びが目に浮かぶようです。
きっと輝かしい未来が見えたのでしょうね・・・♪

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「楽成頼功」と書かれた扁額があります。時の太政大臣・三条実美の
揮毫によるもので、人々の功に頼って落成したって意味でしょうが、
「落成」は「落盤」に通じる忌み言葉であるとして「楽成」の字を
あてたと言われています。楽に成し遂げた訳ではありません。(^_^ゞ


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右はのちに複線化に伴い掘られた、上り線の隧道出口です。
扉が付けられ中には入れませんが、そもそもこの旧逢坂山隧道、
東口はこうして残りましたが、西口は名神高速道路の工事のため
埋められてしまっています。

わずかに内部の煉瓦が見えます。
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石積みのポータル、過度な装飾が無い分、質実剛健とした重厚感が。
翼壁も城郭の石垣を連想させますね。

輝かしい将来の礎となったはずのこの隧道ですが・・・
太平洋戦争末期には、三菱の軍需工場がトンネル内に引っ越し、
京都の女学校の生徒たちが勤労動員されていたといいます。
格好の防空壕兼軍需工場に利用され、戦後は家を失った人々が
住み着いていた時期もあるそうです。

現在は「京大防災研究所付属地震予知研究センター逢坂山観測所」
として、トンネル入り口から約350メートル進んだ中央部に、岩盤の
ひずみを測る伸縮計や地下水位計が置かれているのだそうです。


夏草やつわものどもが夢のあと・・・冬ですが (^_^ゞ
苔生したこの遺構が見て来た歴史は、いかばかりのものだったのか


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2016.1/6、旧逢坂山隧道東口にて。
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土木遺産隧道三昧、その2 [レトロ建築]

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近代土木遺産と言っても、ここは現役バリバリ『蝉丸跨線橋』。
大正10(1921)年に竣工したもので、土木遺産ランクB。

何か古城か要塞のような煉瓦建造物で、見応えがあります。

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この年、同時に東山トンネル・新逢坂山トンネルが竣工して
東海道線は新路線(現在のルート)となります。

これは、上を京阪電車京津線が走る跨線橋(こせんきょう)として
造られたもので、下を今もJR東海道線が走っています。
京阪電車が少し斜めに交差するからでしょうか、入り口がずらされて
いますね。この100メートルほど先に新逢坂山トンネルがありますが
その入り口はずれずに並んでいます。デザインもほぼ同じなんですが
コチラの方がカッコいい♪(^_^ゞ

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1970年に京都-草津間の複々線化が完成、今の姿になりました。
向こうに見えるのが新しく出来たトンネルです。

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それにしても重厚で素晴らしい煉瓦建造物。
汚れ放題なのが残念ですが・・・
ケルヒャーで洗ったら綺麗になるかな?(^_^ゞ

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ここまで来て、新逢坂山トンネルの東口を見なかったのは片手落ち?
短時間しかいなかったから、上を走る京阪電車もトンネルを抜ける
JR電車も撮れなかったし。

またしてもリベンジですかね・・・
旧逢坂山隧道の東口は見て来たのですが。(^_^ゞ


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2015.12/5、蝉丸跨線橋にて。
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土木遺産隧道三昧、その1 [レトロ建築]

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京都と滋賀県の境、逢坂山周辺の明治期・近代土木遺産の隧道を
探索してみました。(3部レポになります)

まずは異次元への入り口を連想させそうな「ねじりまんぽ」。

「ねじりまんぽ」とは、斜拱渠(しゃきょうきょ)の俗称。
鉄道と川や道路が斜めに交差する場合、トンネルのアーチ部分の煉瓦が
斜めに積まれるため、ねじれたような不思議な空間になります。
コンクリート構造物が発達する大正時代以降の構造物には見られず
主に明治期に造られたものです。

伊達や酔狂で斜めに積んだ訳ではありません。(^_^ゞ
上を走る鉄道に対して斜めに掘られたトンネル、強度を確保するため
線路・レールに対して直角になるよう煉瓦を積み上げると、
トンネル内では渦巻き状に積んだようになります。

詳しくは『駅員3』さんのブログの記事をご覧ください。
その法則なども分かりやすく解説されています。


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場所は京都方面からだと国道1号線で逢坂山を越え、国道161号線との
分岐点を161号線に入って直ぐのところ(京阪の踏切を渡って右)です。
この上は国道1号線になっています。
この部分を通過するとまた1号線に合流します。

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知らなかったらまず見逃してしまいそうです。

ねじりまんぽと言えば、南禅寺・蹴上げの琵琶湖疎水インクライン下の
通路が有名ですね(国史跡・土木遺産ランクA)
あそこの場合、上にインクラインのレールが敷かれているのですが、
ここの上は国道1号線。鉄道ではなく、何故?って疑問が生じます。

実はここの国道1号線、以前は東海道線だったのです。
明治13年(1880年)京都駅~稲荷~山科(勧修寺)~大津間が開通。
大正10年(1923年)東山トンネルができ、現在のルートになるまで
東海道線の路線でした。廃線になった部分の多くは道路に転用された
ようです。ここの道路の形状も明らかに築堤の名残りがあります。

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明治13年にはすでに出来ていたと思われる斜拱渠、もう使われてない
のかと思ったら、今でも水路として健在でした。
入って行けないのが残念ですが(入るマニアも居るようですが)
地図で確認しましたが、向こう側から入るのも無理なようです。

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現在は音羽台1号橋となっていますが、鉄道開業当時は東川橋梁と
呼ばれていたようです。
インクライン下のねじりまんぽと比べてもかなり急な角度のように
思えるのですが・・・某サイトで中に入り調査されたデータによると

起拱角が約30°という日本有数のレンガ傾斜角。
国道1号線の真ん中あたりでコンクリート製暗渠と結合されるだが
暗渠全体で50mほどあり、ねじりまんぼ自体の24mも国内で
トップクラスの長さになるのかもしれない。とのことです。

写真が上手く撮れなかったのが残念。
やはり長靴持参でリベンジかな・・・(^_^ゞ

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2015.12/5、大津・ねじりまんぽにて。
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ぶっちゃけ、仏教系。 [レトロ建築]

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西本願寺境内と隣接する龍谷大学大宮キャンパスに寄ってみました。
龍谷大学は、1639(寛永16)年に西本願寺境内に設けられた学寮を
前身とする仏教系の私立大学です。
龍谷大学を知らなくても、高校野球でお馴染みの付属平安高校は
ご存じでは?(^_^ゞ

〈東黌(とうこう)〉本館の向いにある教室棟。比較的新しいがユニーク。
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本館のほか、校舎である南黌・北黌、正門、旧守衛所などは、
1879(明治12)年に竣工したもので、関西における洋風建築の
先駆を成す斬新な建物として、重要文化財に指定されています。


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〈正門・重文〉
明治初期に建てられたままの景観を残し、ドラマのロケにも多く
使われているそうです。

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鉄製の門扉はロンドンから取り寄せたものだそうで、当時
日本の軍艦などを造っていた英国のアームストロング社製。
現在の扉はレプリカで本物は東黌に展示されているそうです。

正面には本館、右に北黌(ほくこう)。手前に守衛所があります。
「ごめんやすな、写真撮らせてもろてもよろしおすか」と
声をかければ(別に標準語でも良いけど)快諾いただけます。
見学用のパンフレットも貰えるらしい・・・
左には南黌(なんこう)、手前にはこれも重文の旧守衛所が。


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〈龍谷大学大宮学舎 本館・重文〉

モダンな洋風建築で、とても仏教系の大学とは見えませんね。
もうひとつ驚きが、この建物、木造なんです・・・(^_^ゞ

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擬洋風建築といわれるもので、日本の技師、大工が見よう見まねで
造った?内部も含めて思いっきり和洋折衷の美が堪能できます。
ちなみにここの住所は、七条通大宮東入大工町。
居たのですね、こんな建物を建てる大工が・・・(^_^ゞ
木造石貼り建築は、比較的早い時期に外国人が居住した横浜などで
よく用いられたそうですが、現存するのは珍しいそうです。
窓や手摺等には前述の英国製のものが設えてあります。


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〈南黌(なんこう)・重文〉

白亜の美しい壁とアーチ型に連なるヨーロッパ調の窓が印象的な
優雅な建築物。これも木造で、ベランダの連続アーチは、木を弓形に
組んで石灰モルタルを用い、石造りのように見せています。

〈渡り廊下〉南黌と本館を結んでいます。柱は昔の駅のイメージ?
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〈北黌(ほくこう)・重文〉
2階の窓も優美、南黌、北黌は本館を挟んで建っています。
現在、教室として使われていますが、もともと寮として建てられました。
今でこそレトロですが、当時の学生たちはこんなにモダンな寮で
生活していたんだなぁ。

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さて、煉瓦マニアにはお待たせ。小型建築物ですが、これは木造ではなく
煉瓦積み、側廻り四隅砂岩石材の明治初期のものです。
今は龍谷大学オリジナルグッズ展示館になっています。
〈旧守衛所・重文〉
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(北小路通から北黌の北面を観る)

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北小路通を挟んで西本願寺境内。台所門、大玄関門(工事中)、
唐門が並んでいます。

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ところで、西本願寺系がこれなら東本願寺系は?
・・・ありますよ、北区にですが大谷大学尋源館(旧本館)が。
ここより少し遅れて1913(大正2)年に建てられた煉瓦造りの建物。
これまたレトロ建築として充分見る価値ありかな。


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2015.7/5、龍谷大学大宮学舎にて。
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