SSブログ
うろうろ探訪 ブログトップ
前の5件 | 次の5件

謎の琵琶法師、蝉丸。 [うろうろ探訪]

FUJI0939.jpg

蝉丸神社・分社から、国道1号線沿いにたらたら下って来ると
上社(旧称:関大明神蝉丸宮)の参道、石段のところに着きます。
分社、上社、下社とも旧東海道に面していたようですが、今はこの
上社のみ国道1号線(東海道)に面しています。

上社の主祭神は猿田彦命、下社は豊玉姫命。合わせて関大明神として
関の守護、旅の安全を守る道祖神の役目だったのでしょう。
平安末期になり、上下両社それぞれに相殿神として蝉丸霊を合祀。

FUJI0941.jpg

さて、蝉丸さんですが・・・調べ出すとどうも実体がつかめず。(^_^ゞ
ミステリー小説を読むようで(こんなん大好き♪)

karuta.jpg

百人一首のこの句は後撰和歌集のもので、この他にも

秋風になびく浅茅の末ごとにおく白露のあはれ世の中(新古今和歌集)
世の中はとてもかくても同じこと宮もわら屋もはてしなければ(同)
逢坂の関の嵐のはげしきにしひてぞゐたるよを過ぎむとて(続古今和歌集)

の3種を含め、4首の和歌を残しているから、蝉丸という名の歌人は
10世紀の半ばまでには実在した人物だといえるでようです。

プロフィールはと言えば、これが生没年不明。詳しいことはさっぱり
分かっていません。


FUJI0969.jpg


FUJI0943w.jpg

この神社も無人、人の気配がしませんでしたが
まだ松の内だったので、鳥居には注連縄など正月飾りをされていた。
それにしても鉄パイプの鳥居?
以前はもっと太い木の鳥居だったようですが・・・

FUJI0946.jpg
〈神楽殿・舞殿〉

FUJI0949w.jpg


FUJI0951.jpg

どうやら地域の方が守ってられるのかな。

FUJI0955w.jpg


蝉丸のプロフィールのように扱われているのが、
能の演目、謡曲「蝉丸」。筋書きをかいつまべば・・・
延喜の帝の第四皇子として生まれた蝉丸、幼少の頃から盲目であった。
天皇は、蝉丸を逢坂山に捨てるよう命ずる。 捨てられた蝉丸は、
琵琶を抱き、杖を持ち、逢坂山の関に住む。
蝉丸の姉、第三皇女逆髪(さかがみ)は、髪が逆立つ奇病。
弟蝉丸を訪ね、やがて琵琶の音に導かれて再会を果たすことになる。
ふたりは障害をもった身を慰め合うが、悲しい別れの結末となる。
世阿弥の作ともいわれているが、ここに描かれている
醍醐天皇(延喜帝)の第四皇子・盲目・琵琶の演者というのが
キーワードになりそうです。

近松門左衛門作の人形浄瑠璃「蝉丸」では、蝉丸は女人の怨念で
盲目となるが、最後に開眼する・・・と、なっているようです。


FUJI0958.jpg
〈本殿〉

FUJI0959w.jpg


関蝉丸神社の由緒書きには・・・
蝉丸に関する様々な伝承は『平家物語』などの文献に登場する。
和歌・管弦の名手であった鴨長明の『無名抄』にも当社に関する記述が
見られる。また、『今昔物語』巻第二四第二三話には管弦の名人で
あった源博雅が、逢坂の関に蝉丸という琵琶の名手が住むとの噂を聞き、
当時蝉丸だけが伝えていた「流泉」「啄木」という秘曲の伝授を
乞うため逢坂山に通い、三年の月日が流れた八月十五日、ようやく
秘曲を聞くことができたという逸話は有名である。
・・・と書かれています。

平家物語には「四宮河原になりぬれば、こゝは昔延喜第四の皇子蝉丸の
関の嵐に心を澄まし、琵琶をひき給ひしに・・・」
謡曲と同じく醍醐天皇の第四皇子、琵琶。四宮が新たなキーワードかな。

一方で、今昔物語では
「会坂ノ関に一人の盲 庵を造て住けり。名をば蝉丸とぞ云ける。
此れは敦実と申ける式部卿の宮の雑色にてなん有ける・・・」
この後、蟬丸は琵琶を弾くとも記されている。
逢坂の関、盲目、琵琶のキーワードは共通するのだが、
式部卿敦実(宇多天皇の御子)に仕える雑色(ぞうしき)だったと
されている。
※雑色とは当時の職位のひとつ蔵人(天皇の秘書的役割)の見習い。
昇殿も許されない身分、皇子とは随分違いがありますね・・・

尾崎雅嘉(江戸末期の国学者)の論では「蝉丸の姓氏詳らかならず。
古説に仁明天皇の時の道人なり。常に髪を剃らず世の人翁と号し、
或は仙人といひ、また延喜帝の第四の皇子などといへるは、いづれも
拠り所なき説共にて時代も違へり。また蝉丸の像を盲人の様に描く事、
笑ふに堪へたり。」と述べています。「百人一首一夕話」

ここまで言われると、盲人ですらなくなる。(^_^ゞ

蝉丸のことは、また次回にもう少し。ってことにして・・・
関蝉丸神社 上社をあとにします。

FUJI0963.jpg
〈本殿より神楽殿を見る〉
この上社、山の斜面にあるので、本殿と神楽殿、鳥居なども
平面にありません。それぞれ石段で繋がれた踊り場の様です。

下は国道1号線、昔の東海道。右に行けば逢坂の関、越えれば京都へ。
登坂車線が設けられていますね。

FUJI0971w.jpg

ここにも常夜灯が立っていました。下の石台は車石が再利用されて
います。これもレプリカかな?
大津米屋中が建てた「逢坂常夜燈」、以前安土で見ましたが。


また余談ですが、百人一首には逢坂山を歌った和歌もありました。
「名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで 来るよしもがな」
作者は三条右大臣(藤原定方)

子供にも教えられる意味は、その名(逢うという意味)を持っている
逢坂山に生えているサネカズラよ。サネカズラの蔓を手繰るように、
人に知られずに、来る方法はないものかなぁ・・・と、なりますかね。

も少しディープにこの句を楽しみましょう♪
「名にし負はば」=その名に背かなければ。
「逢坂山」は、逢う(密会の場所)の掛詞。
「さねかづら」は、マツブサ科サネカズラ属の常緑つる性樹木。
雌雄異株で、別名:美男葛(ビナンカズラ)。漢字表記は実葛・真葛、
核葛とも・・・。掛詞として「小寝」=一緒に寝る(大人の男女がね)
「人に知られで」は、人に知られずに。「よし」は、方法、手だて。
「もがな」はは願望の終助詞になります。さて、「来る」は?
「繰る」の掛詞なんです。素直に葛のイメージで、たぐり寄せるって
意味でも良いですが、ちち繰る=男女がひそかに会って情を通じる。
密通する。って意味も出てくる?
掛詞を駆使して色っぽい部分をオブラートに包み、品良く表現して
いますが、ムラムラした情熱も感じられますね。(^_^ゞ


これはサネカズラの実に似ていましたが、違うようですね。
FUJI0967.jpg
2016.1/6、関蝉丸神社(上社)にて。
nice!(53)  コメント(16) 
共通テーマ:地域

しるもしらぬも あふさかの関 [うろうろ探訪]

FUJI0998.jpg

「これやこの 行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも 逢坂の関」
この和歌は後撰和歌集に収録された蝉丸作のもの、百人一首かるたで
馴染み深いですね。※後撰和歌集では「分かれつつ」となっている。

ひと月前、関蝉丸神社下社にちょこっと立ち寄り(12/5)中途半端
だったので、も少し知りたくなって再訪です(1/6)。
今回は分社、上社、下社と三社の蝉丸神社を巡ってみました。


まずは和歌にも出てくる「逢坂の関(おうさかのせき)」

FUJI1011.jpg

逢坂の関は、近江と山城との境にもうけられた関。二つの坂が
出逢うことからこの名になったようです。別名:相坂関、合坂関。

FUJI1013w.jpg

常夜灯、これはレプリカですね。原碑は確か安土城考古博物館に保存。

FUJI1006.jpg

国道1号線、逢坂山の峠に関址として小さな公園が作られています。
ちょっと関所を連想させるようにね。(^_^ゞ
ただ、実際に関所があったのはこの場所じゃ無かったようです。

FUJI1008w.jpg

ここには以前、滋賀県警の逢坂山検問所があり、トラック丸ごと
重量を計れる装置を置いて、過積載の違反車両などの検問を
していました。まさに関所って感じでしたけど・・・

FUJI1016w.jpg

今は・・・公衆トイレ。(^_^ゞ


さて、蝉丸神社ですが徒歩圏内で3カ所に分かれています。
京阪電車 京津線「大谷駅」から直ぐのところ、この逢坂の関址より
手前の、山の中に分社があります。

FUJI1001.jpg

「村社」とあるのは、明治期に府県社、郷社、村社、無格社などと
分けられた社格の名残り。現在その分類は廃止されています。

FUJI0974.jpg

関蝉丸神社、もともとは上下社をもって一社とする。とありますから、
この社は後に建てられたものでしょうね。

石段を上がる前にこちらもチラッと見ておきましょう。
〈車石〉
FUJI0978w.jpg
〈水準点・古くからのもののようですね〉

車石とは、江戸時代に東海道の大津札ノ辻から京都の三条大橋までの
約12キロの間、坂道で物資を輸送する牛車が通りやすいように
道路に敷いた切石。牛車専用道として人道と分けられていたようです。
物資輸送の大動脈であった街道、逢坂山峠と東山・日ノ岡峠が難所、
雨でぬかるむと大変なことに。
そこで京都の脇坂義堂(心学者)が私財を投じて車の轍をつけた
切り石を敷き詰めたそうです。今もあちこちで保存されているのを
見ることができます・・・ブログのテーマになりそう♪


FUJI0983.jpg

登って直ぐ、右手直角に曲がると・・・

FUJI0989.jpg

ここにも神楽殿があり、その奥に本殿が見えます。
神楽殿があるのは三社共通でした。蝉丸さんが歌舞音曲の神として
中世の芸能に携わる人々に崇敬されていたからですかね。

FUJI0991.jpg

門には鍵がかかっており、入れませんでした。

FUJI0995w.jpg

社と言うより祠みたいな・・・

FUJI0996.jpg


FUJI0994w.jpg

狛犬さんは、なかなか立派でイイ感じです。


神社には駐車場がありませんが、ここでは・・・

FUJI0973.jpg

鰻料理のかねよさんがお店の駐車場を使わせてくれるようです。
※30分以内とのただし書きもありますが。

FUJI1005w.jpg

『かねよ』は以前、京男さんとご一緒したことがあります。
うろうろできるくらいの庭園がある、面白いお店ですよ。

余談ですが、百人一首にはもう一首この逢坂の関を歌った和歌があります。
「夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」
(清少納言・後拾遺集)こちらは坊主めくりではお姫さんですね♪
「夜中に、鶏の鳴き真似をしても、逢坂の関は許しはしません」って
ことかな。清少納言と藤原行成のやりとりの一首と言われています。
「鶏の泣き真似」とは、函谷関の故事※を引用したもので、逢坂の関は
そんなに簡単に騙されて開くことは無い。と言ったものでしょうね。
要は、私はお固いのよ、そんなに簡単に開かない落とせないわよ
って・・・違うかな?(^_^ゞ(この解釈はジョークです)
※函谷関(かんこくかん)の故事とは、中国の史記にある
孟嘗君(もうしょうくん)の話。一番鶏が鳴くまで開かない函谷関の
関所が部下の鶏の鳴き真似によって開き、無事に逃げたというもの。


FUJI0981.jpg
2016.1/6、蝉丸神社(分社)にて。
nice!(50)  コメント(20) 
共通テーマ:地域

逢坂山の蝉丸さん。 [うろうろ探訪]

FUJI0354.jpg

去年の積み残し記事です。(^_^ゞ『関蝉丸神社』

12/5日、他の目的で逢阪山を越えて浜大津方面に向かいました。
逢阪山は昔から山城の国、京の都と近江の国・東国を結ぶ
交通の要所。現在でも国道1号線、名神高速道路、JR東海道線、
京阪電鉄などがこの峠を越えています。
東海道と東山道(後の中山道)がここを通るため、関所が設けられ
不破関(美濃国)、鈴鹿関(伊勢国)と並び逢阪の関は三国之関と
呼ばれるほど重要な関所だったようです。

FUJI0291.jpg

季節感が・・・(^_^ゞ

FUJI0290.jpg

京都からだと国道1号線から161号線に入って直ぐのところにあります。
京都から浜大津に行く時に、よく前は通っていたのですが
寄ってみるのは初めてでした。

FUJI0296w.jpg

京阪電車・京津線(けいしんせん)の線路、踏切の直ぐ向こうに
鳥居が建っています。踏切を渡れば参道です。

FUJI0303w.jpg
〈関の清水〉
井戸の様なものがありましたが、枯れていました。

FUJI0319.jpg

狭くて寂れた感じの境内ですが、ちゃんと神楽殿があります。
これほど小さい神社にしては珍しいかもです。

FUJI0304.jpg

それもそのはず、蝉丸さんは歌舞音曲・芸能の祖神として
崇められいた実在の人物。
謡曲「蝉丸」、世阿弥作の能の演目として有名ですね、
近松門左衛門作の人形浄瑠璃にも「蝉丸」があるそうです。
私的には何と言っても百人一首のかるたで馴染みがある。
坊主めくりでね。
僧坊を被っているのでほっとしたら、坊主扱いなんで・・・(^_^ゞ

ここでは関の守護神、関明神と合祀され「関蝉丸神社」となったとか。

FUJI0306w.jpg
〈貴船神社〉
ありゃ?森進一、大原麗子さんが奉納された提灯がまだ・・・
そう言えば夫婦でしたよね。

FUJI0313w.jpg
〈本殿〉
かなり荒廃していますが、歴史は感じられる?

たまたま立ち寄っただけで、何も知らなかったのですが
後で調べると、ここは「下社」で、近くに「上社」と「村社」が
あったみたい。
気になったので昨日、三社とも回ってみました。

FUJI0308.jpg

関蝉丸神社、いずれまたレポすることになるので、今回は
この下社と電車を・・・(^_^ゞ

FUJI0320.jpg



FUJI0315.jpg

鳥居と踏切、そこを走る電車の光景が面白くて・・・

FUJI0293w.jpg

凍結防止策でしょうか、線路に水が撒かれています。
☆なんだかなぁ〜!! 横 濱男さんにご指摘いただきました。
車輪とレールが接触する音(キシリ音)を低減する為でした。

FUJI0297.jpg



FUJI0360.jpg
2015.12/5、関蝉丸神社(下社)にて。
nice!(43)  コメント(11) 
共通テーマ:地域

ヴォーリズの大丸 [うろうろ探訪]

DP2M3572-2.jpg

ヴォーリズ建築で知られる大丸心斎橋店本館が今年いっぱいで
大改装、来年初めから建て直し工事に入るという情報を
orangeさんの記事で知り、
えらいこっちゃ見とかな・・・と思い、行ってきました。

_D7S2871.jpg

11月14日だったので、御堂筋の銀杏並木もまだこんな状態。

実は私、大阪の市街地をクルマで走るのは苦手。
あまり来ることがありません。大阪の学校に通っていたことも
あるのですが、その頃は電車だったしね。
それに淀屋橋と梅田くらいしかうろうろしなかったし・・・
考えたら大丸心斎橋店は初めてかも。

_D7S2864w.jpg

相変わらず駐車場は屋上が好き。(^_^ゞ あれ何やねん?
ここはどこやねん、みたいなものも見れるしね。

_D7S2870ww.jpg

こんな細い路地があった、何か楽しそう♪「風呂小路」やて。
風呂工事? 袋小路でもなく、抜けると・・・

御堂筋~!

_D7S2877.jpg

ででぇ~んと大丸心斎橋店がッ!

建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの代表作のひとつで、
1933年に完成した「大正モダン建築」。
この景観は見納め?外観は保存するということだが、どうなることか。

重厚なネオ・ゴシック様式。幾何学模様や動植物を抽象化した図柄を
基調としたアール・デコの装飾を至る所に採り入れている。
北西角の塔は同時代のエンパイアステートビルを彷彿とさせる。

とりあえず、ぐるっと回ってみることにします。

_D7S2889ww.jpg

(左)塔の部分を見上げるが、肝心のてっぺん部分が見られない。
(右)ネオ・ゴシックスタイルのランタン。

DP2M3566.jpg

ここだけ切り取るとアメリカかヨーロッパのようです。
ちなみに近くにはアメリカ村とヨーロッパ村が・・・(^_^ゞ

DP2M3569w.jpg

御堂筋側エントランス上部の装飾、花崗岩とテラコッタによる
手の込んだ幾何学模様が美しい。

_D7S2897.jpg

創業1717年の銘板が懸けられている。享保2年、徳川吉宗の時代。
京都伏見に古着商「大文字屋」を開業したのが始まり。
1912(明治45)年にはデパート形式の京都大丸が開店してた。

京都では大丸百貨店を呼ぶとき「大丸さん」とさん付けにして呼ぶ、
理由は何だっけな?災害か何かの際、市民を救済すべく店の前で
炊き出しをしたとか・・・
大丸創業者の経営理念は「先義後利」。天保の大塩平八郎の乱の時、
「大丸は義商なり。これを侵すなかれ」として大丸は焼き討ちを
免れたといいます。京都人には根強く大丸信仰が残っているかもね。
高島屋も京都が創業の地なんだけどね・・・
そうそう、さん付けでなくても大丸京都店とは呼ばないかな
「京都大丸」って呼ぶ。これも京都人らしいところかも。(^_^ゞ


_D7S2892.jpg

御堂筋中央玄関、もう少し上を見ると
大丸のシンボル、孔雀のレリーフが。そして、鷲とペリカンの彫刻。
なんでペリカンなんやろ・・・?

_D7S2887.jpg


_D7S2891w.jpg


_D7S2955.jpg


_D7S2908w.jpg

正式な大丸の社章は「七五三」と知られています。
創業当時の大丸の屋号は「大文字屋」と言うこともあり、当時から
「大」の字を使っていました。「大という字は、一と人を合わせた
もので、丸は宇宙・天下を示す」ことから、天下第一の商人であれ
という創業者の志と決意が込められたものと伝えられています。
大丸マークは、1913(大正2)年に、縁起のよい七五三の髭文字を
商標登録したということです。
「一」の左が三本、「人」の左下が五本、右下のはねが七本に
分かれています。

大丸の社章の左右には「イソップ寓話」をモチーフにしたと思われる
「ウサギとカメ」。ヴォーリズ建築における「ウサギとカメ」は、
滋賀県の豊郷小学校のものが有名ですね。

_D7S2912.jpg


_D7S2915.jpg

南西門を曲がって清水町筋へ。

_D7S2923w.jpg


_D7S2925.jpg

それにしても色んな意匠が見られる、これをどのように保存するのか?
1945(昭和20)年の大阪大空襲で焼失した部分の修復やその後の増築
など同店は何度かの修復・改装を経ているが、一貫してヴォーリズの
デザインを尊重し、守ってきた。
今後もその方針は変わりません。いかなる改装があっても
それは継承していくことになっています。
と言うことなので、お手並みを拝見したいものです。

_D7S2919.jpg
〈南玄関〉


さて、これが心斎橋筋かな。アーケードが邪魔をして
残念なことに上が見えない・・・

_D7S2931.jpg


_D7S2936w.jpg
〈心斎橋筋中央玄関〉

こちらのファサードには印象的な孔雀、大丸のシンボル
ピーコックのレリーフが輝いています。
当初ヴォーリズからは、焼失した店舗再建の願いを託して
不死鳥フェニックスでという指示が出ていた。ところが
テラコッタを受注していたアメリカのメーカーは愛と幸福の
象徴である孔雀を提案し、それが採用されたのだそうです。


_D7S2941.jpg

北側、大宝寺通りから塔を見上げたけれどやはり無理がある。

_D7S2947.jpg
〈北玄関〉

一応ぐるっと回ったけれど、見れなかったり見落としたり
しただろうな。それでもまずは納得。ヴォーリズ建築を
堪能できたと思います。

それでは次回、店内編を・・・


_D7S2950.jpg
2015.11/14、大丸心斎橋店にて。
nice!(53)  コメント(20) 
共通テーマ:地域

龍がどうしたって? [うろうろ探訪]

_D7S2380.jpg

四国旅行最後の目的地は「龍河洞」、思っていた以上に規模が大きく
楽しめました♪
龍河洞は秋芳洞、龍泉洞と並んで日本三大鍾乳洞に数えられています。
国の天然記念物および国の史跡。日本の地質百選に選定されている・・・
日本の鍾乳洞の中でも古くから知られた鍾乳洞観光地、折角だから
一度は見て置かないとね。

_D7S2264w.jpg

龍河洞のキャラクター、リューくん。これもやなせたかし作でした。

_D7S2267.jpg

チャリでのお遍路さん、多く見られました。

_D7S2268w.jpg

この建物は、公衆トイレ。(^_^ゞ


_D7S2273.jpg

駐車場から龍河洞へ行く路には、お土産屋さんが軒を連ねていました。
まるで門前通り、温泉街のような・・・古い観光地の味わい?

_D7S2271w.jpg


_D7S2274.jpg

入り口まで行くには急な長い石段を・・・おっ!エスカレーター♪

_D7S2278w.jpg

貧脚な私らは迷わずエスカレーターへ!
ここで体力を温存したのが後々、ヨカッタと思えました。(^_^ゞ


_D7S2282.jpg

洞入口もワイルド、冒険気分をそそります・・・

こちらは竜王神社、承久の乱により土佐に流された土御門上皇が入洞
された折り、錦の小蛇が現れ案内したとか。その蛇を祀っているとか。
上皇の龍駕(お乗物)が転じて、“龍河”の名称の起源とも言われています。

_D7S2284w.jpg

総延長は約4kmあるそうですが、一般観光コースは1km、
観光コースの長さは秋芳洞並みです。
他に冒険コース(要予約・要装備)なんてのもあるようです。

_D7S2301.jpg
〈石花殿〉

_D7S2290w.jpg

序盤3分の1くらいは小川沿いの通路で、あまり鍾乳石や石筍が
見られませんが、洞窟探検気分にはなれます。

_D7S2306.jpg
〈千仭(せんじん)の間〉
洞内で一番天井が高い場所、30mほどあるそうです。写真はその天井。

_D7S2310.jpg

天井も高かったり頭上注意の場所もあったり、路幅も思いっきり
狭いところもあったりと、なかなか面白い。

_D7S2311.jpg


_D7S2321.jpg
〈雲の掛橋〉
鍾乳洞にはいろんな名前が付けられているのも楽しみのひとつ?(^_^ゞ

〈飛竜の滝〉
_D7S2337w.jpg
        〈記念の滝〉

垂直に落下する飛竜の滝、雨があまり降っていなかったので水量は
それほど多くなかったです。
記念の滝は、11mで洞内最大。昭和6年にこの滝を発見した研究者
山内氏が、その思い出を残すために「記念の滝」と名付けられたとか。

_D7S2341.jpg


_D7S2359w.jpg
〈前の千本〉
エイリアンの卵でもありそうですねぃ・・・

_D7S2347.jpg
〈天降石〉
洞内最大の巨大な鍾乳石「天降石」。記念の滝のすぐ先にあって
広場のようになっています。記念碑もあり、ガイドさんが説明をされていました。

〈奥の千本〉
_D7S2382w.jpg
        〈中間点〉くらげ石?
前の千本があれば、奥の千本もね。中間点まではスイスイ来れました。

_D7S2399.jpg
〈裏見の滝〉
恨み・・・じゃなくてヨカッタ。鍾乳洞らしい光景ですね。

        〈龍口〉
_D7S2397w.jpg
〈流礫棚〉

_D7S2411.jpg
〈玉簾の滝〉高さ6m、幅4m。

_D7S2414w.jpg
        〈双葉山のへそすり石〉
元横綱双葉山が昭和14年入洞の際、狭くておへそを擦りむいたそうで。
スリムな(?)私でも窮屈なところがありましたもん、小錦は絶対ムリ!


_D7S2472.jpg

様々な鍾乳石、石筍(せきじゅん)、石柱やつらら状、幕状など
一堂に見られる場所もありました。
鍾乳洞はだいたい暗いですけれど、肉眼ではそれなりに見えるのに
写真に撮るのは結構難儀、ストロボを使うと手前の光が当たるところだけ
写って、影の部分は全く潰れてしまう。三脚立ててじっくり撮っていたら
半日洞窟から出て来れないかも。(^_^ゞ
手持ちで露光量を稼ごうと思えばシャッタースピードが遅くなって
ブレブレに。今回もほとんどストロボを使わず手持ちで撮りましたが、
そのままだと真っ暗けの画像なので後処理で増感しましたが、
難しいですね。

        〈シャンデリア〉ん~、そうかなぁ?
_D7S2429w.jpg
〈鮭の石〉これは納得、そう見える見える。


_D7S2483.jpg
〈七福神の館〉

〈七福神〉何となくそれっぽいけど、ムリがある?
_D7S2454w.jpg
        〈万象殿〉
異様に創造された無数の石筍の集合が森羅万象の如くってことらしい。
僧正を囲んで、数人の僧侶が居並び読経をしているとも・・・?苦しい~


_D7S2446.jpg

マリアさまにお釈迦さま・・・どこを見ればそう見えるのか??

_DSC9845w.jpg

終盤に差し掛かるところ、文字通り「しんどい」階段が延々と続きます。

_D7S2433.jpg

途中、休憩できる場所もありますが・・・

_D7S2453w.jpg

洞窟内で峠!そう言えばエスカレーターに「出口はビル20階くらい上」
って書いてあった。あそこで石段を避けたのは正解だったかも。(^_^ゞ

_D7S2439.jpg


さて、終盤に龍河洞のウリでもある先人の住居跡が・・・

_D7S2461.jpg

約2000年前、弥生時代といえばもう平野に竪穴式住居、農耕が始まって
いたのに、こんな洞窟生活をしていた一族も居たんですね。
狩猟生活をしていたようで、獣骨なども発見されています。

_D7S2495w.jpg

_D7S2506.jpg

部屋もいくつかありますが、きっと掘ったりせず適当に住みやすい場所を
探して住み着いたのかな。
明かりと暖をとり、調理もしたのでしょう炉跡もあります。山の中なのに
貝殻なども沢山あったとか、結構グルメな生活をしていたのかな。

水も豊富だし、その水汲み場と思われるところに土器の壷が2000年の間に
その約1/3が石灰華におおわれて残っています。

〈神の壷〉あちゃー、ボケボケ!
kaminow.jpg
        仕方がないので、パンフレットの写真を拝借↑

神の壷2世の実験も・・・

_D7S2493.jpg

洞窟の発見が昭和6年、実験を始めたのが昭和12年。
当時の龍河洞保存会が、2000年前の『神の壺』と比べてみようと
壺を置きました。ちなみにこちらの壺は弥生時代のものではなくて、
昭和12年当時の物だそうです。
よく見ると100年も経たないのに、それなりに鍾乳石化してきてます。
「神の壷」と呼べるようになるには、まだまだ十数世代の人間が
神や仏にならないとね・・・。

神代の昔からなんて言うけれど、この洞窟が形造られたのは人類が
出現するずっとずっと前のこと・・・何て考えながら
「天の岩戸」って書かれた出口から現世に戻ります。(^_^ゞ

高低差60m、行程1km、普通なら30分ほどの一般コース。洞窟に入って
最初の1枚目を撮ったのが11:42、出口を撮ったのは12:39でした。

_D7S2508.jpg
2015.9/23、龍河洞にて。
nice!(62)  コメント(22) 
共通テーマ:地域
前の5件 | 次の5件 うろうろ探訪 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。